バスケ女子日本代表林咲希、天国の父に学んだ大切な「三つの言葉」

西日本スポーツ

 東京五輪出場を目指すバスケットボール女子日本代表の林咲希(JX-ENEOS)が「父の日」の21日、3年前の2017年に他界した最愛の父への恩返しを誓った。大卒3年目の昨年代表デビューした遅咲きながら、3点シュートを武器に途中出場から流れを変える切り札として定着しつつある。「天国の父」に見守られてブレークした25歳のシューターが来夏の東京で大輪の花を咲かせる。

 愛称の「キキ」には、二つの意味がある。一つは姓の「林」が「木」2本のため。代表入り後は「チームの『危機』を救う選手」との意も加わった。試合の流れを一変させる3点シュートの使い手。立て続けに決まれば瞬く間に得点差が開くし、詰まることもある。

 「それが私の仕事。打ったら入るという自信は常にある」。開催国枠で東京五輪に出場する日本が参加を義務づけられていた2月の五輪予選で躍動した。途中出場となったベルギー戦では約20分間で3点シュートを8本成功させた。先発したカナダ戦でもチーム最多の21得点。エース渡嘉敷来夢(JX-ENEOS)とともにグループでのベスト5に選出された。

 代表チームでも、所属のJX-ENEOSでもスタメンではない。むしろ交代の切り札としての役回りを担う。そんな林が活躍を誰よりも見せたい父の豊樹さんはこの世にいない。JX-ENEOSに入団した3年前、口腔(こうくう)底がんのため、53歳の若さでこの世を去った。競技経験者だった豊樹さんは糸島市職員として勤務する傍ら、地元に「ミニバス」のチームを設立。同市バスケットボール協会の会長も務めるなど普及に尽力した。林はその「ミニバス」に所属していた。

 「父は(私情が入るからと)男子を教えていました。静かに温かく見守ってくれている感じ」。だからといって放っておくわけではなく、試合会場から自宅に走って戻るときは、バイクで伴走してくれた。「ありがとう、ごめんなさい、いただきます。この三つをきちんと言える人間になること。感謝を絶対に忘れんこと。それだけできれば、よかよか」。口数は少なくても、自然豊かな故郷糸島の風景のようなおおらかさが好きだった。

 豊樹さんの病が判明したのは、林が栃木県の白鴎大に進学後。手術も2回受けた。「子どもたちに『学校を休むやつが練習に来てつまるか!(良いわけないだろ!)』と言っている大人が仕事をせんかったら、示しがつかん」。そう口にして退院翌日から仕事に出掛けようとした。親元を離れて競技に打ち込む娘の成長を楽しみにしていた。

 2017年8月25日。林が台北で開催されたユニバーシアード夏季大会に女子日本代表として出場しているときに、父は息を引き取った。一睡もできない状況でも「父なら『やり遂げて帰ってこい』と言うはずだから」と悲しみをこらえた。当時JX-ENEOSの先輩だった藤岡麻菜美さん(5月に現役引退発表)の「お父さんに最高の姿を見せようね」との励ましにも支えられてプレー。チームの得点源となり、同大会50年ぶりとなる銀メダル獲得に導いた。

 「きついとき…いや、もっとしんどいとき、苦しいときに頑張れる力や信念は父から教わったというよりも、もともと父が持っているものなんじゃないかなと」。汗を流すことをいとわず、一直線に突き進む原動力。「出たい、というのではなく、出なきゃいけない」。東京五輪が1年延期となった今、林の“ゴールリング”はさらに明確になった。JX-ENEOSは5月に入って3人一組での練習を再開した。「人より多くやりたい、が私のモットー。やった分だけ(シュートが入る)確率は上がっている」と自負をのぞかせる。

 「希望の花が咲くように。周りに希望を与えられるように」と名付けた豊樹さんは、娘の頑張りを後押ししようと最後まで力を振り絞った。亡くなる2週間前には東京でユニバーシアード女子日本代表の試合があった。「ジャパンのユニホームを着ている咲希を自分の目で見られるのは最後かもしれない」と主治医を説得し、福岡から空路東京まで応援に駆けつけた。試合会場で撮った一枚の写真。父が娘と会った最後の日となった。「多くは語らなかったけれど、逆に近くに感じる」。満開の花を咲かせたい来夏、夢だった東京五輪は娘が天国の父に「ありがとう」を伝える恩返しの舞台でもある。 (西口憲一)

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