なぜ? かつて野球日本代表のユニホームが「KOMAZAWA」だった理由

西日本スポーツ 西口 憲一

 コロナ禍で1年延期となった東京五輪。当初の日程では、8日に野球の決勝が横浜スタジアムで行われる予定だった。前回1964年の東京五輪では公開競技で、開会式翌日の10月11日に神宮球場で日本の学生、社会人の選抜チームが米国の学生選抜と1試合ずつ対戦。学生選抜は2-2で引き分け、社会人選抜は0-3で敗れた。当時慶大4年で、後にプロ野球の南海でも活躍した投手の渡辺泰輔さん(78)=福岡県直方市在住=は左袖に日の丸と五輪マーク、胸に「KOMAZAWA」の文字をつけての試合を懐かしんだ。

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 1964年10月12日付の西日本新聞の紙面で、野球と「東洋の魔女」の扱いは対照的だった。野球はベタ記事で、初戦で米国を一蹴したバレーボール女子は写真付きのサイド記事。しかも、野球のユニホームは「USA」の全米選抜に対し、日本の学生選抜は「KOMAZAWA」だった。

 なぜ、現在の野球日本代表のような「JAPAN」ではなかったのか―。日本の学生選抜は同年春の全日本大学選手権優勝の駒大を中心に編成。東京六大学の慶大のエースで、同年春のリーグ戦で史上初の完全試合を達成した渡辺さんは「駒大のユニホームに特に抵抗はなかった」と笑う。ちなみに社会人選抜は同年の都市対抗野球を制した日本通運のユニホームを着用していた。

 他に土井正三さん(立大-巨人)、長池徳二さん(法大-阪急)らプロでも活躍する選手も招集。「普段から切磋琢磨(せっさたくま)している連中と同じチームでプレーできる喜びが大きかった」。10日の開会式はテレビで見た。聖火リレーの最終走者、坂井義則さんの堂々たる走りが印象に残っている。

 11日に行われた試合の前に合宿や合同練習をした記憶もない。「当日神宮に集合して、試合後に解散だったんじゃないかな」。秋空の下、公開競技はなごやかな雰囲気で進んだ。観衆の熱狂は6万人超が詰めかける早慶戦とは比較にならず、当時は芝生だった外野席の緑も所々でのぞいた。

 1点をリードしていた九回。渡辺さんは走者を三塁に背負い、投ゴロを一塁送球した間に同点とされた。「間に合わなかったのか、隙を突かれたのか…。その辺は覚えていない。後になって『しもうたな』と。思い切ってホームに投げても良かったかも」と引き分けた一戦を笑顔で懐かしむ。

 福岡県直方市出身で慶応高、慶大に進んだ渡辺さんは65年に入団した南海で「打倒西鉄」に燃え、通算54勝を挙げた。野村克也さんとバッテリーを組み、同年からV9の金字塔を打ち立てた巨人の王貞治さん(現福岡ソフトバンク球団会長)や長嶋茂雄さん(現巨人終身名誉監督)と日本シリーズで対戦。16勝した66年は4試合に先発してONと真っ向勝負を挑んだ。

 92年バルセロナで正式種目となった野球は2008年北京を最後に除外となり、今回は追加種目として3大会ぶりに復活する。「(コロナ禍で)中止にならなかっただけ、まだ良かったと思う。大学野球ともプロ野球とも違う。(1964年に)エキシビションであっても、五輪に野球が関わったのは事実ですから」。56年前のユニホームと参加賞のメダルは今も手元にある。金色の輝きとともに「東京五輪」の思い出は色あせない。(西口憲一)

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