センバツ中継で話題沸騰「カードゲーム事件」 練習中グラウンドで選手にUNOさせた監督の思い

西日本スポーツ 前田 泰子

 明豊(大分)が中京大中京(愛知)を5-4で破って春夏通じて初の決勝進出を果たした。選抜大会での大分勢の決勝進出は1967年に優勝した津久見以来54年ぶり2度目。九州勢では2011年の九州国際大付(福岡)以来10年ぶりとなる。

 3月31日の準決勝の試合中、ツイッターでは明豊がトレンド入り。NHK中継で解説を務めた大矢正成氏が川崎絢平監督のエピソードを紹介し、中でも「カードゲーム事件」は急上昇ワードになった。“事件”の経緯と、その背景にあった思いを、川崎監督が語っていた。

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 川崎監督が「最近5年間では一番弱い」と評していたチームは、これまでの明豊の歴史を塗り替え、甲子園の決勝まで駆け上がった。昨秋の九州大会で九州国際大付(福岡)との初戦から、強豪と次々に対戦。甲子園でも接戦を制して勝ち上がるたび、強さを増した。川崎監督が選手に「強豪に勝って力をつけると、甲子園でも勝てる」と言い聞かせてきた通りになった。

 指導の軸に「考えること」がある。「いろんなことを考えるのが好き。選手にはあまり言わない。こいつは今どう思っているんだろうとか、ずっと観察して考えていますね」。普段の練習では指導よりも観察する時間の方が長いほどだ。

 その指導法もユニークだ。あるとき、寮の消灯時間をすぎても部屋でカードゲーム「UNO」をやっている選手たちがいた。翌日、川崎監督は「そんなにやりたいなら、おまえらの練習メニューはUNOだ」とマウンドでUNOをさせたという。もちろんその間、練習は中断。ほかの選手はマウンド付近でその様子を眺めるというシュールな光景が生まれた。

 「その時も考えましたね。ルールを破るとみんなに迷惑が掛かるということを分からせなくてはいけないけど、頭ごなしに言っても一瞬のことですから」。自身は智弁和歌山で「ガンガンやられた」世代。もちろん、当時のやり方は通用しないので選手の心に届く指導法を常に考えている。

 「考える」ことは1年時からレギュラーだった智弁和歌山時代に習慣になった。打撃のチームで守備力を買われて起用され「試合に出続けるにはどう打てばいいか、常に考えた。野球は最後は感覚のスポーツ。自分でつかむしかない」と話す。高校時代の経験から、練習での選手への指示は最小限。自分の意図を伝えた後は、選手の自主性に任せている。

 社会に出た後の経験で観察力も磨いたという。大学卒業後、所属したクラブチームの母体のスーパーに店員として務めた。キャベツをカットし、ナスをパックに詰め「『今日はお鍋などいかがでしょう』って店内放送もしました」と笑う。現役を終えた後は、実家が経営するコンビニエンスストアの店長も経験。「そういうものが今に生きている」と振り返る。

 12年8月の監督就任後の歩みを「負けて反省しての繰り返し」と明かす。監督として初めて甲子園の土を踏んだ15年夏は初戦で仙台育英(宮城)に1-12で大敗。「ボコボコにされて『甲子園で勝つチームにならなきゃ』って反省を積み上げてきた」。毎年変わる選手に合わせて、指導法も柔軟に変えた。

 選手には卒業後に社会に出ることを考えて「人との縁を大切にしなさい」と常に伝えている。自身の経験があるからだ。野球をやめて地元に戻ったとき、恩師の元へあいさつに行った。「だから母校のコーチの人選に僕が浮かんだと思うんです。『そういえば川崎が帰ってきてるやないか。声掛けてみよう』ということで呼ばれたんだと思います」。指導者人生のスタートは智弁和歌山のコーチ就任。「あれがなければ明豊の監督にはなっていなかった」と振り返る。だからこそ「あいさつとか当たり前のことをやっていればチャンスは必ず回ってくる」と信じ、教え子に話して聞かせる。

 選手、指導者の両方で選抜大会を制した沖縄尚学の比嘉公也監督とは同学年。智弁和歌山1年時に選手権大会優勝を経験した川崎監督が、今度は指導者として初の頂点に挑む。(前田泰子)

 ◆川崎絢平(かわさき・じゅんぺい)1982年2月12日生まれ。和歌山県出身。智弁和歌山高1年夏の甲子園で優勝、3年夏は4強。立命大から箕島球友会に入り全日本クラブ選手権で優勝した。智弁和歌山高コーチを経て、2011年に大分・明豊高部長、12年8月に監督就任。甲子園は春夏計4回出場(中止の20年春を含む)で17年夏に8強、19年春に同校初の4強へ導いた。

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