足を滑らせ負傷した正捕手 ソフト日本代表監督が厳しく叱った訳

西日本スポーツ

【ソフトボール女子日本代表・宇津木麗華監督コラム「麗しき夢」】

 東京五輪ソフトボール女子日本代表の宇津木麗華監督は、北京五輪以来となる金メダル獲得の期待を担う中で令和を迎えた。生まれ故郷の中国から昭和に来日。選手や指導者として平成を駆けた。

 一度は五輪から除外された期間の苦しさを知るからこそ、選手には日本代表として五輪で戦う意味や価値を問い続ける。「競技人生の集大成」と言い切る東京五輪への道のり。その思いを語った。

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 いい一歩目を踏み出せると、ゴールまでの道筋を描きやすくなる。「銅」に終わった2004年アテネ五輪で、日本は負けられないオーストラリアとの初戦を落とした。00年シドニーは「銀」。周囲の「金」への期待は主将だった私にも伝わった。いかに最初が肝心かを学んだ。今夏の東京も同じオーストラリア戦から始まる。決勝を含めて米国と2度戦うことを強く意識するとともに、初戦必勝を胸に刻み込んできた。

 19年夏、五輪会場となる福島で代表合宿を張った。コロナ禍で1年延期にならなければ、20年の「7・22」が開幕試合だった。その1年前の「7・22」の福島合宿初日。特別な思いで迎えた私は怒りを抑えきれなかった。正捕手の我妻悠香がベース付近で滑って足首を捻挫したからだ。雨で足場が悪かったにもかかわらず、緊張感が欠けていた。

 東京への取り組みとともに「扇の要」として育ててきた。米国の機動力には我妻の強肩が不可欠。何より捕手は監督と同じで代えが利かない。二枚看板の上野由岐子や藤田倭とバッテリーを組ませた。所属のビックカメラ高崎では主将も経験した。「投手はあなたに投げる。そのあなたがいなかったら、誰が捕るのか」。けがをした当時24歳の彼女に私は厳しい言葉をぶつけた。準備しても五輪は想定外のことが起こる。上野もアテネでは発熱や蜂に刺される不運に見舞われた。計画通りに進まないからこそ、チーム競技であっても個の行動と言動には責任が伴う。08年北京を最後に五輪を知らない日本のマイナス面が危機感の薄さにつながったのかなとも考えた。

 あれから2年がたとうとしている。我妻は不動の存在になってくれた。昨秋のことだ。上野をリードした試合で、対戦相手の主力打者が「上(ライズ)がくるかなと思ったら、下(ドロップ)がきたり、その逆だったり…。リードにやられました」と脱帽していた。

 元代表監督の宇津木妙子さんと同じ進学校の埼玉・星野高出身。チーム内で「ガッツ」と呼ばれている。名前の「あがつま」から「がつ」が「ガッツ」になったようだ。代表戦で外国人選手のファウルボールを頭に何度も受け、クロスプレーでは首も痛めた。故障明けの上野の調子が上がらない時は「サインのせいです」と自分を責めていた。それでもグラウンドでは笑顔を絶やさない。愛称にふさわしい根性の持ち主だ。

 悩みながらも逃げずに場数を踏んできた。以前は“大根切り”だった打撃も開眼中。172センチの長身で長打力もある。今春のリーグ戦では満塁本塁打を放った。「それ、バットじゃなくて包丁の使い方じゃないの?」と、冗談を飛ばしていた頃が懐かしい。「試合を動かしているというか、捕手の面白さをやっと実感できるようになりました。毎日、監督には怒られていますが…」。取材への受け答えからも成長が伝わる26歳。心優しき「ガッツ」が旬を迎えようとしている。(ソフトボール女子日本代表監督)

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 宇津木 麗華(うつぎ・れいか)1963年6月1日生まれ。中国・北京市出身。元中国代表。88年来日、95年日本国籍取得。現役時代は内野手で日本代表の主砲、主将として活躍し、シドニー五輪銀メダル、アテネ五輪銅メダル。2003年に日立&ルネサス高崎(現ビックカメラ高崎)の選手兼任監督就任。04年に現役引退後は11年から15年まで代表監督を務め、12、14年の世界選手権優勝。16年11月、再び代表監督就任。群馬女子短大を聴講生として卒業。右投げ左打ち。

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