【評伝】小嶺忠敏さん 情熱的で人情派、最後まで「教育者」で幕

西日本スポーツ 田中 耕

 長崎・国見高サッカー部を指導して全国高校選手権で戦後最多タイの6度優勝に導いた元監督の小嶺忠敏(こみね・ただとし)さんが7日午前4時24分、肝不全のため長崎市内の病院で死去した。76歳。長崎県南島原市出身。葬儀・告別式は9日正午から南島原市深江町丁4593、南高葬儀社寳玉殿で。喪主は妻厚子(あつこ)さん。

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 体重100キロを超す巨漢が、岩のごとく座っている。うわさで聞いていたあだ名は「ダンプ」。1995年秋。私は国見高の取材後、近くの居酒屋で小嶺先生と相対していた。「私の信念は体を張って子どもを守り、スポーツを通して人を育てることだ。スポーツがうまいだけでは駄目だ」。そう切り出すと、人とはどうあるべきかを語りだした。これが最初の出会いだった。

 情熱的で人情派。自ら行動に移して、選手ファーストの哲学を貫いた指導者であり教育者だった。終戦の年の6月、現在の長崎県南島原市で7人きょうだいの末っ子として生まれた。父忠則さんが沖縄で戦死したのは、生まれる約3カ月前。「父は37歳で亡くなり、私は倍以上も生かしてもらっている。だから一生懸命やらないといかん」。自らの出自をばねに、長崎の小さな町でも日本一になれることを証明し、数々の金字塔を打ち立てた。

 3年前。私の元へ突然に来られた。いつもそうだが、会うと「謙虚」「動」「熱」「生涯チャレンジ」などをテーマに、よく説法をしてくれた。特に指導論は、中国の言葉「一目の羅」を引用していた。「羅」とは網のこと。網の目が一つでは鳥を捕らえられない。何百もの網の目がつながりあっているから、捕らえられる-。これに例えて「生徒にはそれぞれ個性がある。どれがその子に合うかは分からん。私は網目を増やさんといかん。生徒の数だけ指導方法はある」と。

 「網目」を増やすため、国内や世界各地に足を運び、あらゆる業界の人と会った。その時に「これは」と思うと、酒を飲んでいてもメモをする。「他人の意見や自分が感じたことを文章に残すことで、その経験は完全に自分のものになる」と言って、割り箸や手の甲にペンを走らせていた。

 生徒の個性を磨き伸ばす指導法は、自らを律することから始まった。「子どもは大人をよく見ている。その大人がルールを破ってはいかん」。授業や練習では一度も遅刻したことはなかった。生徒の性格を見極めるために寮で寝食を共にし、筋が通った考えは尊重した。マイクロバスを運転して全国を転戦するスタイルの先駆けとなったが、これも教え子の「練習試合が一番ためになる」との意見を取り入れたからだ。

 最後に話をしたのは昨年11月。「来年喜寿の祝いをしますよ」と問い掛けると「体調が良くないんだ」と応じた後、「生徒から『うちの監督は死ぬまで全力を尽くしてくれた』と言われる教育者で幕を閉じたい」と言葉を詰まらせた。最期を覚悟していたのだろうか-。ただ、半世紀以上もグラウンドに立ち続けたその思いは、きっと教え子たちの心に届き、その生きざまを引き継いでくれるにちがいない。(田中耕)

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