ホークス一筋・藤原満さん聞き書き「ぶれない」⑤大ファンだった西鉄の宿敵から指名

西日本スポーツ 野口 智弘

 ソフトバンクの前身である南海で一時代を築いたプレーヤーがいた。ガッツあふれるプレーでファンを魅了した藤原満さん(75)=西日本スポーツ評論家=だ。一昨年に亡くなった野村克也監督の下でチームプレーに徹し、低迷するホークスの中でいぶし銀の活躍を見せた。太いグリップが特徴の「ツチノコバット」を短く持って安打を量産したレジェンドの半生を聞き書き「ぶれない」でお届けする。

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 1968年秋に行われた第4回ドラフト会議は、「史上空前の大豊作」と今でも語り継がれています。

 「法政三羽がらす」と注目された田淵幸一、山本浩司(現浩二)、富田勝がそれぞれ阪神、広島、南海に入団。星野仙一(明大)と大島康徳(中津工高)は中日。阪急は山田久志(富士製鉄釜石)、加藤秀司(松下電器)、福本豊(同)を、東京(翌年にロッテ)は近大でチームメートの有藤通世、西鉄は東尾修(箕島高)を獲得するなど、のちの日本プロ球界を背負って立つ名選手がこの年のドラフトで指名されたのです。

 私はプロに行く気は全くありませんでした。自分とは別世界だと思ってましたからね。この時期には姉・粧子の夫が勤めていた四国電力野球部への入部が内定していました。松山商高から近大に進学する時に「大学卒業後には四国電力にお世話になる」と約束もしてましたから。

 ドラフト会議の日は、確か四国電力の本店がある高松市の姉の家にいたと記憶しています。すると、南海が4位で私を指名したとの情報です。社会人野球に行く決断をしていましたから困りました。

 それに、実は南海は嫌いなチームでした。私は少年時代から西鉄の大ファンですよ。監督として西鉄の黄金時代を築いた三原脩さんと、「怪童」と呼ばれた主砲の中西太さんは香川県出身で私と同じ北四国出身の大ヒーローです。ですから、西鉄の最大のライバルである南海に指名されて大いに戸惑いました。

 それに、プロでやれる自信もなかった。松山商高時代の監督でプロ野球経験者だった武智修さんや、近大の松田博明監督らに相談しました。最後に背中を押してくれたのは、伊予銀行で社会人野球をやっていた長兄の浩。「せっかくのドラフト指名。一生こんな機会はないぞ。おまえは末っ子の五男だし挑戦してみろ。プロをクビになったらオレが面倒をみてやるわ」との言葉で、プロの世界に飛び込む決心がつきました。

 契約金は700万円、年俸180万円で、月給は手取りで12万5000円でした。当時の大卒の初任給が約3万円でしたから、さすがプロ野球やと思いましたね。入団会見は覚えていません。今みたいに新人選手が一堂に集まって、カメラの前でパフォーマンスをするような派手な儀式はなかったですね。

 背番号は7。ドラフト1位の富田が5。そのころ、南海の選手層は高齢化していましたから、大卒選手2人への球団の期待度が分かります。ちなみに、背番号7を現役14年、コーチ1年と連続15年間付けましたが、これはホークスの歴代背番号7の最長記録だそうです。(聞き手・野口智弘)

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