ホークス一筋・藤原満さん聞き書き「ぶれない」(17)突然のコーチ要請「辞めて強くなるなら…」

西日本スポーツ 野口 智弘

 ソフトバンクの前身である南海で一時代を築いたプレーヤーがいた。ガッツあふれるプレーでファンを魅了した藤原満さん(75)=西日本スポーツ評論家=だ。一昨年に亡くなった野村克也監督の下でチームプレーに徹し、低迷するホークスの中でいぶし銀の活躍を見せた。太いグリップが特徴の「ツチノコバット」を短く持って安打を量産したレジェンドの半生を聞き書き「ぶれない」でお届けする。

   ◇   ◇

 1982年オフ。2年間南海を率いたブレイザー監督が退任しました。新監督に2軍監督の穴吹義雄さんが昇格。その穴吹さんから自宅に呼ばれ、いきなり「ヘッドコーチを引き受けてくれ」と要請されました。

 穴吹さんは10年間も2軍監督でしたから、1軍の選手をよく知らない。そこで、1軍で主将だった私に1軍選手とのパイプ役になってもらいたかったのですね。少し考えて返答しました。「私が引退して南海が強くなるならいいですよ」

 この瞬間まで現役引退なんて頭になかった。1年前の81年には2度目の最多安打(154本)で、2年連続4度目の「打率3割」をマーク。82年は打率2割6分2厘でしたが、まだまだやれる自信はあった。

 当時、36歳。「あと3、4年はできたでしょう」とよく聞かれますが、未練はなかった。もともとプロ選手になれると思ってなかったので、「よく14年間もやってこられた」との充実感でいっぱいでした。それと、主力選手だった人がベンチに寂しく座っている姿を見るのが嫌だった。たとえば野村克也さん。南海を追われた後「生涯一捕手」と言って、ロッテと西武で計3年間、45歳まで現役を続けましたが、成績は悲惨でした。野村さんに抱いていた夢が壊れた。私はそんな姿を見せたくはなかった。

 さて、「私が引退して強くなれば」と言ってコーチを引き受けましたが、全然強くならなかった…。95年まで南海、ダイエーで13年間を2軍監督、コーチ、球団編成部(2年間)としてホークス一筋で選手をサポートしましたが、チーム成績は全部Bクラス。今では信じられないようなホークスの暗黒時代でした。

 コーチ時代の悲しい思い出に、久保寺雄二選手の突然死があります。久保寺選手は勝負強い俊足巧打の選手として活躍。私の引退後に正三塁手に定着したので、私が付けていた背番号7を84年に引き継がせ、将来が楽しみな選手でした。ところが、翌年の正月に静岡の帰省先で風邪をこじらせて、急性心不全で亡くなったのです。26歳の若さでした。年末まで練習を一緒にしていた有望な選手の死に、言葉を失いました。

 「ドカベン」こと、香川伸行君も印象深い選手。ホークスの子ども会に入っていて、最初に会った時、「相撲をやってんの?」と驚いたほどの体形でした。80年に南海に入団。豪快なバッティングと、先のプレーを読む野球センスは抜群で、チームの人気者でした。私を慕ってくれるかわいい後輩でもありました。しかし、引退後は長い闘病生活を経て2014年に52歳で亡くなってしまった。

 後輩たちの訃報に接するたびに、胸が痛みます。(聞き手・野口智弘)

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