ホークス一筋・藤原満さん聞き書き「ぶれない」(18)球団身売り、ついに“その日”がやってきた

西日本スポーツ 野口 智弘

 ソフトバンクの前身である南海で一時代を築いたプレーヤーがいた。ガッツあふれるプレーでファンを魅了した藤原満さん(75)=西日本スポーツ評論家=だ。一昨年に亡くなった野村克也監督の下でチームプレーに徹し、低迷するホークスの中でいぶし銀の活躍を見せた。太いグリップが特徴の「ツチノコバット」を短く持って安打を量産したレジェンドの半生を聞き書き「ぶれない」でお届けする。

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 ついにその日がやって来ました。1988年9月13日。ダイエーの中内〓社長が、南海からホークスを買収する意向であることを明らかにしたのです。

 球団売却の動きは既に報道されていて覚悟はしていましたが、ショックでした。戦前からあり、何度も優勝してきた名門の南海が球団を手放すとは思ってもみなかった。成績はBクラスが続き、大阪球場では閑古鳥が鳴く状態。難波駅に隣接する一等地に、赤字を垂れ流す野球場とホークスを維持することは、もう限界だったのです。

 中内社長は球団の福岡移転を発表し、南海の吉村茂夫オーナーは杉浦忠監督の続投とホークスの名前を残すことを譲渡の条件にします。当時、私は守備走塁コーチ。南海本社に呼び出され「杉浦監督と一緒に福岡に行ってほしい」と頼まれました。プロ野球選手として育ててくれた南海には恩返しをしたかったから了承しました。

 ただ、「ホークス」のニックネームも消えてほしかった。私にとって「南海ホークス」はプライドそのもの。ダイエーには違うチーム名を付けてもらいたい、と強く思いました。

 89年1月19日、チャーター機でホークスは新天地の福岡に舞い降りました。私の仕事は2軍監督。ところが、2軍球場から合宿所まで一からつくらなければならない状態。かつて西鉄のライバルだったホークスへの福岡市民の反応も気になった。さらに流通業界の風雲児ダイエーが九州に本格上陸したことに対する福岡経済界の冷たい視線。歓迎パーティーの席などでひしひしと感じましたよ。

 ダイエーは豊富な資金でファンの心をつかんでいきました。日本初となる開閉式屋根付きのドーム球場を建設し、多彩なファングッズを無料配布するなどして子どもと女性のファンを増やしていった。戦力面でも根本陸夫さんが球団フロントを引っ張り、次々と大物選手をトレードなどで獲得。さらに王貞治監督の招請に成功します。王監督は心ないファンから生卵を投げられる屈辱も味わいましたが、99年に悲願のリーグ優勝と日本一を達成。弱小ホークスは不死鳥のごとく復活しました。

 そのダイエーもホークスをソフトバンクに譲渡しましたが、私は中内さんの先見の明に敬服します。ホークスの福岡移転がなければ、今のパ・リーグの繁栄もプロ野球の発展もなかった。感謝しています。

 福岡に来たときは2、3年で大阪に帰るつもりでした。でも、大阪の家も数年前に売却し、もう完全に福岡人です。「ホークス」の名前ですか? 今ではよくぞ残してくれた、と思っていますよ。(聞き手・野口智弘)

※〓は「たくみへん」に「刀」

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