柳田悠岐の軌跡 入団時の連載プレイバック!

 今を時めくタカ戦士がルーキー時代に、西スポ紙上で連載した記事をもう一度お届けします。2010年秋のドラフトで2位指名された柳田悠岐。それでは…プレイバック! =2015年1月27日付、電子版・西スポプラス掲載

■サッカーから野球へ

 野球少年は少数派だった。柳田が通った大塚小がある広島市安佐南区は、Jリーグ・サンフレッチェ広島の本拠地、エディオンスタジアム広島から約1キロの“お膝元”。サッカーが盛んな土壌だった。運動会の徒競走で常にトップだった俊足の持ち主は、当然のようにサッカーを始めた。

 転機は小学3年のとき。友人に誘われて「西風五月が丘少年野球クラブ」に入部した。前年の日本シリーズでオリックスが巨人を倒し、テレビで見たイチローのプレーに衝撃を受けた。「僕にはサッカーより野球の方が楽しかった」。自宅マンションの外壁に毎日ボールを投げ続け、近所の「雷おやじ」に怒られるのはおなじみの光景だった。遊撃手でみせた肩の強さを買われ、6年で投手に転向。チームを広島市長杯優勝に導いた。

■1歳でソファ持ち上げた

 これ(2枚目の写真)、誰だか分かりますか? 今から45年前のものですが、柳田に似ている気が…。宮崎・延岡商高から西鉄に入団した柳田豊氏。実は、柳田にはプロのDNAが流れていたんです。

 小さいころから運動能力はずばぬけていた。父修宏は柔道などで体を鍛え、母由美子は元ハンドボールの選手。由美子は「力が強くて、1歳のときに居間のソファを持ち上げたのにはビックリしました」と振り返る。修宏のいとこの豊は西鉄などで活躍したサイド右腕で、近鉄では1979、80年のリーグ連覇に貢献。柳田は「小さいころに1、2回キャッチボールをしてもらった程度」というものの、5度の2桁勝利を誇った元プロ投手のエキスも吸っていた。

 そんな柳田も軟式の八幡シニアに所属した中学時代は目立つ存在ではなかった。「バットの芯で球をとらえてもうまく飛ばせなかった」。中学卒業時は170センチ、58キロ。そんな無名の中学生が進路に選んだのは、全国的な高校野球の名門、広島商だ。「岩本貴裕さん(現広島)が2学年上にいてバチ(とても)強かった」。あこがれを胸に抱いての入学だった。=敬称略

■柳のように細かった

 1988年度生まれは多くのスター選手がそろう黄金世代だ。田中将大を筆頭に、前田健太、坂本勇人、斎藤佑樹。その斎藤と同じ名前の柳田「ゆうき」はゆっくりと成長していった。

 同世代で日本ハムのドラフト1位右腕、早大の斎藤佑樹と同じ読みの「悠岐(ゆうき)」。その名前には、おおらかに人生をマイペースに進んでほしい、という両親の願いが込められている。伝統校に進んだ原石が光を放ち始めるのには時間がかかった。

 春夏合わせて7度の全国制覇を誇る名門、広島商高のレベルは想像以上だった。毎年40~50人の新入生が入部する。柳田の売りだった足と肩も特別な武器とはならなかった。当時監督だった迫田守昭(現広島・新庄高監督)は「目立たない存在だった。肩はあるけど不安定。柳のように細い子だった」と振り返る。=敬称略

■才能を開花させた「1本足」

 柳田が壁にぶつかっていたころ、球界の大砲として活躍していたのが近鉄の中村紀洋だ。本塁打王、2度の打点王を獲得した中村の一本足打法を参考に、柳田はその才能を開花させた。

 強豪の広島商高では存在感を示すことができず、2年夏まではスタンドでの応援部隊だった。「目立つには打撃を磨かないといけない」。そこで思い切って取り入れたのが中村紀洋(DeNA)を参考にしたやや変則的な一本足打法だった。「タイミングはずらされやすくなるけど、反動を使った方が打ちやすかった」。飛躍的に打球の飛距離が伸び、2年秋に念願のレギュラーに抜てきされた。

 県大会には3番三塁で出場。才能を開花させ中国大会出場を決めたが、開幕直前の練習試合で1試合3失策を犯し、右翼コンバートを言い渡された。当時監督の迫田守昭は欠点を見抜いていた。「体が硬く、内野は厳しかった」。これが柳田には奏功した。外野転向でスローイングが大きくなり、力強さを増した。遠投は110メートルに伸び、50メートル走では6秒を切るようになった。いつの間にか身長も180センチを超えていた。=敬称略=

■野球をやめかけた未完の大器

 この写真は広島大会に出場した高校3年時の柳田。目指していた甲子園には届かず、プロからも注目されなかった。「野球は高校まで」。そう考えた未完の大器の背中を押したのは‐。

 広島商高3年夏の広島大会。柳田は不動の3番に座ったが、チームは如水館との準決勝で7‐11と敗れ、全国の舞台で名前をアピールする機会を逃した。高校通算11本塁打も驚く数字ではない。「実力的に厳しいし、大学でやるのはもういいかな」。柳田はそう考えたが、潜在能力を信じる迫田守昭監督(当時)は違った。「プロや大学で通用する可能性はおまえが一番高い」と背中を押された。

 その気になって関東の強豪大学のセレクションに出向いたが、落選。それでも迫田に「とにかく野球を続けろ」と後押しされ、地元の広島経済大への進学を決めた。「関東、関西のチームを見返したい」。新たな決意を胸に秘め、当時阪神の金本知憲が広島時代から通っていた市内のジムに週4回足を運んだ。プロテインも欠かさず摂取し、肉体改造に成功。高校入学時の「柳」は「大樹」へと変貌を遂げた。=敬称略=

■広島から全国へ…分厚い壁

 アマチュア時代は手も足も出なかった投手を、プロになって打つ。柳田にもそんな相手がいた。大学時代、自信満々に乗り込んだ全国の舞台。そこには非情な現実が待ち受けていた。

 広島経済大での4年間は、柳田にとって「全国の壁」との戦いだった。レギュラーに定着した1年秋に打率4割を超え、広島六大学リーグのベストナインに輝いた。広島商高時代は一本足打法で飛距離を求めたが、筋力のアップに伴いかつての打法に戻して安定度が上昇。2年春にも打率4割4分4厘と打ちまくり、初の全日本大学選手権の切符をつかんだ。

 しかし、ようやくたどり着いた全国の舞台で力不足を思い知らされた。函館大との初戦で無安打に終わり、チームも敗退。3年春は打率5割2分8厘を記録してリーグMVPに輝いたが、この年も全日本選手権初戦で創価大のエース大塚豊(現日本ハム)の変化球に手が出ず無安打に終わった。「2年の選手権は調整不足だったが、3年春は万全で臨めたし、手応えもあった」。自信は粉々に打ち砕かれた。

■進化の4年 メジャーも来た

 負けて、人はまた強くなる。全国の厚い壁にはね返された柳田は屈辱を糧に練習に励み、米メジャーからも注目される存在となった。そして迎えた大学最終年。全国での結果は…。

 「全国の舞台で打たないと意味がない」。広島経済大2、3年時の全日本大学選手権でいずれも初戦敗退した柳田は、屈辱感を胸に個人練習での打撃量を倍に増やした。広島の元投手でコーチ経験もある龍憲一監督(当時)の指導を受けて打法も改造。力強さを増した打撃が注目され始め、米大リーグ・レッドソックスのスカウトも視察に訪れるようになった。

 迎えた4年時、2010年6月の選手権。三重中京大との初戦で第2打席に待望の初安打が飛び出した。3回2死一塁、内角高めの直球を引っ張った右前打。試合も延長10回サヨナラ勝ちした。続く北海道大戦では敗れたものの、1安打に三盗を含む3盗塁。メジャーを含むプロのスカウトの評価をさらに高める活躍だった。

■同世代「あの」マー打ち

 19打数5安打。これは柳田の田中将大に対する通算成績だ。対戦は2012年からの2シーズンだけ。せめて今年まで、マー君が日本にいたら…。柳田はこれからまだまだ進化する。

 広島経済大入学後、3年春までわずか1本だった本塁打は、同年秋からの3シーズンで17本と飛躍的に増えた。走攻守で全国レベルへの成長を実感し、迎えた2010年秋のドラフト会議。福岡ソフトバンクの2位指名を受けた。プロで対戦を望むのは同い年の田中将大(楽天)だ。「あのスライダーを打ちたい」。日本ハムに1位指名された斎藤佑樹(早大)と戦える日も心待ちにする。

 06年夏、甲子園の決勝で投げ合う田中と斎藤を、あこがれの思いを抱きながらテレビ画面越しに見つめていた。あれから4年。当時は無名の存在だった柳田も同じプロの舞台に立った。メジャー級の身体能力で、同世代のリーダーたちに挑む。=おわり=

■西スポプラス【HAWKS写真集】柳田悠岐のページ

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