阪急西宮球場 「大衆の阪神」に挑む 球史彩る創業者の情熱

 阪神電鉄に遅れること5年。箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)が1910年、営業運転を開始する。海寄りの、大衆の足となった阪神に対し、沿線を上質な土地開発で対抗しようとした阪急。このライバル心は四半世紀後に誕生した職業野球チームにも反映された。 (文中敬称略)

 早慶戦原動力に
 阪急西宮球場は、壮大な野球の歴史物語に欠かせない存在意義を持つ。

 高校野球もまだ始まっていない1906年。当時の野球と言えば大学野球であり、早慶戦だった。この年は秋のみ、3試合を行う予定で、10月28日に慶応が先勝。そして運命の11月3日を迎える。

 1戦目に勝った慶応応援団が、早大・大隈重信総長の家の前で「バンザイ」を叫んだことを受け、11月3日、2戦目に勝った早大が今度は慶応構内の福沢諭吉宅の前で大騒ぎ。

 この騒動で3回戦は取りやめとなり、早慶戦は19年ものブランクを余儀なくされる。この歴史に残る1戦を、阪急電鉄創始者で慶応OBの小林一三が観戦していたのだ。

 小林一三日記から抜粋する。

 「午後から三田(慶応グラウンド)にゆく 慶応と早稲田とベースボールの競技を見に 中々盛大で秩序アルには驚いた (中略)是程面白いものは又とあるまい」(カッコ内は筆者)

 ヒートアップする両校の様子を小林は淡々と、しかし非常に感慨深く捉えている。この日見た光景が、後の野球事業に突き進む原動力となったのだ。

 着工から5カ月
 1915年には、豊中グラウンドを造り、全国中等学校野球優勝大会(現在の高校野球、夏の選手権)開始に参画。

 24年、東京にあったプロ野球チーム「日本運動協会」を再結成する形で「宝塚運動協会」を設立、29年まで宝塚球場を拠点に活動。

 そして渡米中の35年、阪神の球団設立を聞きつけた小林が、西宮北口駅の“上に”球場建設を命令した。

 さすがに当時の技術では難しかったのか、場所は同駅の南東にあった一面の農地に落ち着いた。

 完成は、指令からわずか1年半後、着工から5カ月後の37年4月30日。しかも近隣にはライバル・阪神電鉄が保有する土地もある中での早業だ。阪急文化財団の学芸員・正木喜勝氏(38)によると「この早さは、もともと小林翁に“その気”があって、主要な土地買収は進んでいたからと推察されます」という。

 宝塚運動協会発足の8年前には、プロ野球創設プランを口にしていたというから、先述の早慶戦を起点とした野球事業熱は年を追うごとに熟成されていたに違いない。

 大衆の阪神VS上質の阪急。完成した西宮球場は、シカゴカブスのリグレーフィールドなどを参考にした、内外野天然芝のあか抜けたもので、日本初の二層式スタンドなど斬新なアイデアを取り入れ「お客さんにとっての空間の快適さや見やすさを追求しました」(同)という。

 人気超えられず
 第二次大戦では例に漏れず、鉄傘を接収された。しかし45年12月、プロ野球再開試合を行ったのも西宮球場なら、翌夏、高校野球が再開されたのも、同球場だ。

 53年にはナイター設備が完成、78年には人工芝を導入し、82年は電光掲示板が加わるなど、時代に応じて成長してきた。

 球場完成と合わせて誕生した阪急ブレーブスは67年に悲願の初優勝を遂げると、パ・リーグきっての強豪に成長、75年には初の日本一からリーグ4連覇(3年連続日本一)を果たす。

 チームの絶頂期はしかし、瞬間の熱狂は呼んだが、どうしても阪神を超える人気を手にすることはできなかった。

 88年、オリックスに身売り。完成から60年目の96年に最後のプロ野球(阪神対広島)が行われ、その後は競輪やアメフットなどに使用していたが2002年、その役目を終える。今は西日本最大級のショッピングセンター「阪急西宮ガーデンズ」に様変わりしている。 (デイリースポーツ・西下 純)

 ◆阪急西宮球場アラカルト
 ▼完成 1937年4月30日

 ▼所在地 兵庫県西宮市高松町14の30

 ▼規模 両翼91.4メートル、中堅118.9メートル、収容人員4万人(開業当初は5万5000人)

 ▼フランチャイズ 阪急以外に、同制度ができた48年から2年間は大陽ロビンスも本拠にしていた

 ▼野球以外 有名なのは競輪。49年に第1回西宮競輪が開催された

 ▼さらには… 83年には新外国人・バンプと福本豊と競走馬の50メートル走、宝塚歌劇団の運動会、アメフットからコンサート、軍事パレードなど、あらゆるイベントの現場となった

 黄金期見守り 12年間で9度V

71年放棄試合、江夏9連続K

 阪急創業者・小林一三の夢を背負って誕生した西宮球場。チームとともに最も輝いたのはやはり1967年から12年間で9度のリーグ優勝を果たした時期だろう。とりわけ初の日本一となった75年は、3度日本一となった中で唯一、同球場で胴上げが決まった年だ。

 11月2日、広島との日本シリーズ第6戦を制しての胴上げから2時間後、西宮球場の外野にはビールとおでん、シューマイなどが並べられ、30分ほどの“公開祝勝会”が行われると、住友平内野手の合図を皮切りにビールかけが始まった、と記録に残っている。

 当時、阪急担当記者だったデイリースポーツOB・平井隆司(73)は翌日の一面で筆を踊らせ「西宮球場が敢行されたのは(昭和)十二年の五月一日である。それから幾星霜…。四十年目の日本一のその日がついにやってきた」と締めくくった。

 平井は「隣に阪神がおるから」と、勝っても勝っても人気チームになれない悲哀を代弁し、だからこその熱い原稿になったことを、西宮球場へのノスタルジーを交えて語る。

 もう一つ、忘れられない年がある。71年だ。7月13日。阪急対ロッテ10回戦。7回表、江藤のハーフスイングをめぐりロッテが抗議、三振という判定が覆らなければ試合をしないとして、30分間の中断後、砂川主審がプロ野球6度目にして、以後現在まで出ていない「放棄試合」を宣告した。

 西宮球場の2万1000人のファンが騒然となり、一部がグラウンドになだれ込んだ。当時の西本幸雄監督を取材したデイリースポーツOB・浜田直人(72)は「淡々と話していたことを覚えてるなあ。(ファンは)阪急沿線で、おとなしいとされてたけどさすがにきついヤジが飛んでいたよ」と、当時の様子を話す。

 それからわずか4日後。西宮球場ではオールスターが開催され、先発した江夏豊が3回を9者連続三振という、不滅の大記録を打ち立てる。

 遊撃のポジションからその投球を見ていた藤田平は「うなるようなホップする球。直球と分かっていても、顔のあたりのボールさえ手を出していた」と述懐した。「球場の、1球ごとの盛り上がりと、それに応えようと踊るように投げる姿が印象的やったね」と、西宮球場の、歴史的な一コマを思い出していた。

この記事は2016年03月15日付で、内容は当時のものです。

PR

プロ野球 アクセスランキング

PR

注目のテーマ