東京スタジアム 下町の「光の球場」 私財投じ総工費30億円

 東京の下町、まだ高層ビルもなかった住宅地の一角に、光り輝く球場があった。現在のおしゃれな街並みになる前、畑に囲まれた球場で「暴れん坊」と呼ばれた男たちがまさに暴れ回った。「ボクの思い出STADIUM」第4回は、オリオンズの本拠地「東京スタジアム」と、フライヤーズの本拠地「駒沢球場」を取り上げる。(井上洋一)(文中敬称略)

 米球場がモデル
 これは一種の暴動である。

 1970(昭和45)年10月8日の東京中日スポーツ1面に、こんな書き出しの記事がある。前日の7日、ロッテオリオンズが本拠地・東京スタジアムでの西鉄戦に5-4で勝ち、10年ぶりのリーグ優勝を決めた。この球場では62年の開場以来初の優勝。決定直後の様子をこう表現していた。

 約5000人のファンがグラウンドになだれ込んだ。その一角でファンの手によって胴上げが始まった。輪の中心にいたのは、何とオーナーの永田雅一。監督の濃人渉よりも早く宙を舞った。

 当時、他球団でも優勝直後にファンがグラウンドに殺到することがあったが、お目当ては監督や選手たちだった。それがこの時は、ファンがオーナーを真っ先に胴上げ。まさに異例。喜ぶ姿が暴動と見えるくらい、みんながうれしがった。

 「ファンも永田会長(オーナー)の力の入れ方をよく分かっていたのですよ」。こう話すのは当時のロッテ正捕手の醍醐猛男(77)。映画会社・大映の社長であり威勢のいい語り口から「永田ラッパ」としても有名だったオーナーは、オリオンズをすごく愛していた。私財を投じ30億円もの総工費で造った東京スタジアムはその象徴だった。

 サンフランシスコ・ジャイアンツの当時の本拠地だったキャンドルスティック・パークをモデルにした球場。2本のポール型鉄塔が支える照明灯は、当時主流の鉄骨組みとは違って格好いいと評判だった。外野だけでなく内野にも映える芝生、日本の球場で初のゴンドラ席…。ファンも選手も誇れる球場だった。

 大映スター続々
 「画期的で、当時は群を抜いてすごい球場だった」。57年のプロ入り以来19年間オリオンズ一筋でプレーした醍醐が今でも声を弾ませ、こう続けた。「トレーナー室や医務室、きれいな食堂もあって、でも、一番心が和んだのはロッカールームです。すごく広くて、深く座れた。後楽園や神宮は狭くて隣ともぶつかって、着替えるのもせわしかった。東京スタジアムは試合前にゆっくりできる場所でした」という。

 さらに、こう言って目を細めた。「僕と隣のアルトマンの間にあった50センチほどのスペースに、小さな冷蔵庫を買ってビールを入れてました。ナイターが終わると2人で乾杯。うまかったなぁ」

 スタンドには永田の縁もあり大映所属のスターがよく来ていた。「京マチ子を何度か見た」と醍醐。勝新太郎や若尾文子らの姿もあったようだ。もっとも、東京スタジアムを象徴するスタンド風景といえば下町情緒たっぷりのところ。「げた履きでカランコロンと音をさせながら近所の人が来ていた」と醍醐。そんなスタンドによく通った一人が、元ロッテ職員で現在はロッテ葛西ゴルフ勤務の横山健一(52)だ。

 東京都港区で育った横山は「親や近所のおじさんがオリオンズファンで、幼稚園のころからよく連れていってもらった。照明やカラフルなスタンドが格好良かった。球場の近所の子が見ているところに、入り口でお母さんに『お弁当を渡して』と頼まれた係員がスタンドまでよく持ってきていた」。決していつも満員でなかったが、球場は東京の下町の名物だった。

 72年限りで閉場
 横山は優勝を決めた70年10月7日も観戦。先発の小山正明が5回までに3失点。だが0-3の6回、先頭の代打・江藤慎一がソロ本塁打を放ち、その後もアルトマンの同点2ラン、さらには走者1人を置いて山崎裕之の勝ち越し三塁打、そして醍醐も右犠飛を放ち一挙5得点。八木沢荘六からバトンを受けた木樽正明が最後の3イニングを逃げ切り歓喜の瞬間が訪れると、当時小学1年生の横山もグラウンドに下りた。

 「最初は一塁側内野自由席。知り合いのつてでどんどんネット裏の方へ進出し、優勝の瞬間は応援団がいた一塁ベンチの上あたり。結構高かったけど、ベンチの上から知り合いの人が下ろしてくれた。何だか分からないくらい興奮しましたが、みんな喜んでいて、いいなと思いました」。今もなお格別の思い出だ。

 犠飛も打っていた醍醐は「うれしくて試合は忘れちゃった」と話す一方、永田の様子はよく覚えている。「すごく満足げな表情をしていましたね」。当時の記事によれば、永田は「すべてが極めて劇的じゃないか。映画のストーリーでもこうはいかんぜ、キミー」と感激の思いを語っていた。

 ただ、ここでの優勝もこれが最初で最後だった。歓喜から3カ月後の71年1月、永田は不振に陥った大映の経営再建に専念するため、球団経営権をロッテに譲渡しオーナーからも退いた。膨らむ赤字が問題だった東京スタジアムも72年のシーズン限りで閉場となった。

 ◆東京スタジアムアラカルト
 ▼所在地 東京都荒川区南千住6の45の5

 ▼完成 1962年5月。6月2日にパ・リーグ6球団が集結して開場式をした後、大毎-南海戦でこけら落とし。大毎が9-5で勝利。5回に3ランを放った南海・野村克也が球場第1号本塁打

 ▼規模 両翼91.4メートル、中堅121.9メートル。左中間と右中間が109.7メートルと膨らみがなかったことは、本塁打が出やすいとバッテリー泣かせだった。(ちなみにナゴヤドームは左中間と右中間116メートル)。収容は公称3万5000人

 ▼榎本喜八 この球場で大活躍した一人が今年野球殿堂入りした榎本。68年7月21日の近鉄とのダブルヘッダーでは、第1試合の第1打席で鈴木啓示から右翼線二塁打を放ち、川上哲治、山内和弘に次いで史上3人目の2000安打達成。31歳7カ月での達成は史上最年少だった。ただこの日の第2試合で榎本は、8回、投ゴロの近鉄・安井智規と一塁でぶつかり、これが発端となり両軍が殴り合う大乱闘に発展。榎本は背中をバットで殴られたといい、翌日の東京中日スポーツでは2000安打よりも乱闘が大きく報じられた

 ▼野球以外にも 左翼の地下にはボウリング場を併設。シーズンオフの冬には、客席をスケートリンクにもした=写真(提供:千葉ロッテマリーンズ)

 ▼最後のプロ野球公式戦 72年10月15日のヤクルト-阪神戦(阪神が5-1で勝利)

 ▼解体 77年4月1日に始まり、同年9月26日に終了。現在の跡地は、荒川総合スポーツセンター

 駒沢球場 前代未聞、8回2死満塁から振り逃げ4得点
 1960(昭和35)年7月19日、駒沢球場での東映-大毎戦で前代未聞の珍事件が起きた。大毎は1-3の8回2死満塁で山内和弘が見逃し三振。捕手が後逸した球がバックネット前まで転がりながら東映は捕りにいかず、その間に振り逃げで走者一掃の4得点した大毎が逆転勝ち。振り逃げのルール(2死は一塁に走者がいても成立)の勘違いが原因のようだ。

 元中日の谷沢健一はこの話を、中日監督時代の山内から聞いた。山内自身も一度ベンチに戻りかけたが「ルールをよく知っているやつが『走れ』と言う。じゃあしょうがないから走るかとなった」という。この時の東映投手は土橋正幸。谷沢は解説者で一緒だった土橋からも聞いた。「俺は三振を取ったのに、あいつら勝手に回りやがって」と話したという。

 ◆駒沢球場アラカルト
 ▼所在地 東京都世田谷区駒沢公園1の1

 ▼完成 1953年9月。東急フライヤーズの親会社である東急電鉄が造り東京都に寄付。もともと駒沢公園は東急が所有。戦時中の43年に防空緑地に指定され、東京都に敷地を譲渡。48年に国有地、49年から再び都有地となった場所に、球場を造り都に寄付という形を取った。最初の試合は53年9月27日、東急-南海のダブルヘッダー(1試合目は10-2で南海、2試合目は2-1で東急勝利)

 ▼規模 両翼91.5メートル、中堅122メートル。収容3万人(当初は2万5000人)

 ▼暴れん坊 土橋正幸、山本八郎、張本勲ら猛者が在籍、「駒沢の暴れん坊」の異名を取った

 ▼閉場 駒沢が64年東京五輪の第2会場に決まり、球場施設の都への返還を求められ、61年のシーズンをもってプロ野球の開催を終了。最後の試合は61年10月17日の東映-大毎戦(東映が8-3で勝利)。64年五輪では駒沢で、東洋の魔女こと女子バレー日本代表がソ連(当時)を破り、金メダルに輝いた。現在の駒沢オリンピック公園総合運動場内の第二球技場あたりが駒沢球場の跡地

 こち亀にも登場

下町情緒たっぷり

 東京スタジアムは「光の球場」という呼び名も有名だ。高層ビルが少なかった当時、住宅街の一角に明るい光を放っている様子をそう表現していた。人気漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の82巻では、主人公の両さんが子どものころ、狭い路地裏を抜けて光を放つ球場へ通う姿が描かれているが、よくこの球場に通った元ロッテ職員の横山も、同じような体験をしていた。

 「地下鉄の三ノ輪駅を降りて行くときは、車1台分くらいが通れる下町の路地を抜けて行くんです。路地はまだ暗いんですが、球場前の通りに出ると突然、『ポン』と明るくなる。本当にドキドキする感じでした」。まさに、両さんと同じ世界がそこにあった。

 注意したのはなんと 少年時代の鈴木孝政

元ロッテ・醍醐捕手

 元ロッテの醍醐=写真=は東京スタジアムでのある日、客席側からバックネットの金網に手をかけてへばりつく子どもを注意したことがある。「僕、危ないよ、けがするよ、ってね」。少年は当時千葉県に住んでいた元中日・鈴木孝政だった。「彼がプロ入りした後、オフのイベントで会った時、『僕が小学6年生の時に注意されたんです。覚えてますか』って言ってきてね。もちろん覚えていて、ビックリしたよ」と醍醐。一方、鈴木は「初めて東京スタジアムに行った時のことです。危ないのはその通りですね」と苦笑いしつつ、懐かしそうだった。

この記事は2016年04月19日付で、内容は当時のものです。

PR

プロ野球 アクセスランキング

PR

注目のテーマ