藤井寺球場 猛牛の思わぬ苦悩 照明設置に近隣住民は猛反発
西日本スポーツ、デイリースポーツ、中日スポーツ、東京中日スポーツによる4紙合同企画「ボクの思い出スタヂアム」。今回は、猛牛軍団、いてまえ打線などの異名で、1950年から2004年までパ・リーグを盛り上げた近鉄の本拠地、藤井寺球場と日本生命球場を取り上げる。(デイリースポーツ・西下 純、敬称略)
「文教地区」…
近鉄、藤井寺駅。文教地区であり、大きな家が立ち並ぶ高級住宅街もある。藤井寺球場の完成は1928(昭和3)年。当時、周囲には宅地に加え、「大阪教材園」という、子供たちの自然学習に使われる公園もあった。
その“上品”な町に50年、2リーグ分立とタイミングを合わせて近鉄パールス(後にバファロー、バファローズ)がやってきた。終戦から5年。戦後復興も進み、人々が娯楽に目を向け始めた時代であり、中でもプロ野球は急速に人気が高まってきたころのことだ。
期待と歓迎をもって誕生した近鉄だったが、藤井寺の町と共に歩む形はつくることができなかった。理由の一つはずばり、弱かったことだ。
創設20年目の69年に初めて優勝争いをする(結果は2位)。それ以前のAクラスは54年、パ・リーグ8球団中、4位が1度あっただけという、文字通りのお荷物球団はなかなか、ファンの支持を得ることができなかった。
氷飛んできた
もう一つ。前述と無関係ではないが、関西の球場の事情として、近鉄は「藤井寺に骨をうずめる」という形を取ることができなかった。ナイター照明の問題だ。
51年には、早々と大阪球場にナイター設備が完成し、平日の藤井寺での試合が減る。58年にはナイターのできる日本生命球場を準フランチャイズ化、一層、藤井寺球場の存在価値が薄まった。とはいえ日生球場も広さや収容人員において脆弱(ぜいじゃく)であり、藤井寺でナイターができればそれに越したことはなかった。
69年の優勝争い、そのオフのドラフトで三沢高校の大スター・太田幸司獲得決定などを追い風として、翌年、チームはナイター設備建設方針を打ち出す。
ところがこれに近隣住民が猛反発する。現在、藤井寺駅近くでスナック「しゃむすん」を営む元近鉄の主力打者・栗橋茂(64)は74年、初めて藤井寺を訪れ「こんなに嫌われてるの?」と戸惑った。
電柱や壁など、町の至る所に「『ナイター反対』とか、『ママ、うるさくて僕、勉強できないよ~』とか、張り紙があってねえ」と、文教地区ならではの、静かな夜を過ごしたいという声が非常に強かった。
一方、応援するファンは愛情の裏返しとして、きついやじを飛ばす。空席の目立つ藤井寺球場では、そのやじが選手にちゃんと届いてしまう。
72年入団の、現楽天監督・梨田昌孝(62)は「近所の高校に通う女子高生から『あんた、打たんねえ』と言われたり、氷が飛んできたりしたこともあったなあ」と在りし日の藤井寺に思いをはせる。
「関西には鉄道会社(の球団)が四つもあった時代。『近鉄電車は2階建て、南海電車はボロ電車』なんて聞こえてきた。懐かしいねえ」と梨田。
06年取り壊し
「レフトスタンドで、しちりんに火をおこして焼き肉するファンもいたね。係員が飛んでいってたけど」(栗橋)というのもファンの気質と藤井寺球場の雰囲気を象徴するようなエピソードだろう。
訴訟問題にまで発展したナイター設備は84年4月6日、ようやく完成する。
ちょうど1カ月後の5月5日、祝日のため、デーゲームではあったが近鉄の大エース・鈴木啓示が藤井寺球場で史上6人目の300勝を達成する。このあたりから88年、仰木彬監督が就任し、西本幸雄監督時代(74~81年)に続く黄金時代を迎える時代が、この球場の絶頂期だった。
85年には初のオールスター、89年には初の日本シリーズも行われたが、97年、大阪ドーム(現京セラドーム大阪)完成に伴うフランチャイズ移転のため、藤井寺球場は役目を終える。2006年に取り壊され、現在は文教地区らしく、学校の敷地となっている。
◆藤井寺球場アラカルト
▼完成 1928年5月25日(2005年閉場)
▼所在地 大阪府藤井寺市春日丘3の1の1
▼規模 両翼91メートル、中堅120メートル、収容人員3万2000人(異論あり)
▼主(あるじ)なき… 72年、ナイター設備の土台を組んでいる最中に、住民訴訟が起こり、完成する84年まで10年以上、寂しく鉄骨土台が建っていた
▼いてまわれ? 近鉄といえば強力打線。しかしやられる時も豪快だった。86年8月6日、西武戦の8回に1イニングで6本塁打を献上。現在も日本記録
▼ベテランに優しい 近鉄・新井宏昌は92年7月8日に2000安打、オリックス・佐藤義則は95年8月26日にノーヒットノーランを記録。いずれも40歳での快挙だった
日本生命球場 今はありえない「弱いタカ」に生卵
96年5月9日
日本生命球場の誕生は1950年。完成当初からプロの利用もあったが、近鉄が準本拠地とするのはナイター設備ができた58年からだ。
大阪の官庁街近くという土地柄、センターまで116メートルという大きさしか取れなかった。栗橋茂はルーキーイヤー(74年)に、「本当に、信じられないくらい守備範囲が広かった」という阪急・福本豊から「センターに打っても、ヒットにならへんで」と脅されていたが、9月16日、山田久志から福本の頭を越えるプロ初本塁打(サヨナラアーチ)を放っている。
狭くて得したエピソードだが、逆に守備中、長打力のある打者が立つと、レフトの栗橋は「フェンスに張り付いて守るんだけど、もう僕の真横には相手のファンがいるからめちゃくちゃやじられたよ」という、困ったことも。
そんなファンの暴走の、究極が、日生球場でのプロ野球最後の公式戦となる96年5月9日、近鉄対ダイエー(現ソフトバンク)だった。王貞治監督が就任2年目のダイエーは開幕から苦戦を強いられ、この日も初回のリードを守りきれず、4連敗目を喫してしまった。
試合中から、モノの投げ込みなど、不穏なムードが立ちこめていたが、敗戦の瞬間、ファンがグラウンドになだれ込み、ダイエーナインはベンチ裏に待避、その後、帰りのバスに乗り込もうとするが、そのバスまで取り囲まれ、あろうことか周到に用意された生卵が投げつけられるという事件にまで発展した。
当時の打撃・走塁コーチで、王を守ろうと、身をていしてファンの前に立ちはだかった現オリックス打撃コーチ・高橋慶彦は「あまり覚えてないけど、大阪での(ダイエー)ファンはまだ、南海色が強かったよね」と振り返る。
静かに幕を下ろせなかったのも、今思えば日生球場らしいエンディングだったのかもしれない。
◆日本生命球場アラカルト
▼完成 1950年6月28日(97年閉場)
▼所在地 大阪市中央区森ノ宮中央2の1の55
▼規模 両翼90.4メートル、中堅116メートル、収容人員2万500人
▼誰のモノ 日本生命が、同社野球部を含むアマチュア野球開催地として建設。その後も大学、高校の大会に重用された。閉場により、現在も関西のアマ球界は球場不足に悩んでいる
▼照明? 大阪、甲子園に続いて58年にナイター設備完成も、暗くて「コウモリが飛んでいた」(栗橋氏)
この記事は2016年05月10日付で、内容は当時のものです。




























