ナゴヤ球場 中日と巨人が優勝かけ最終戦 今中の心砕いた落合

 視聴率48・8%
 各世代の野球ファンが「10・8」を「ジュッテンハチ」と読み、その意味を知っている。巨人を率いた長嶋茂雄は「国民的行事」と言ってこの試合に臨み、衝撃の210安打を放ったイチローは、神戸から駆けつけた。互いに同率で迎えたシーズン最終戦。勝った方が優勝という究極の決戦は、プロ野球中継史上最高の視聴率54・0%(名古屋地区。関東地区は48・8%)を記録した。決戦の舞台はナゴヤ球場。前夜からの徹夜組が周辺を埋め、開始まで7時間あまり前の午前10時55分に開門した。

 地の利はもちろん、最大10・5ゲーム差を追い付いた勢いも中日にある。しかも斎藤雅樹は6イニングを投げた試合から中1日、先発の槙原寛己も同じ試合で救援登板し、打ち込まれている。最後を締めた桑田真澄も8イニングを投げてから中2日。対する今中は中5日と万全のコンディションの上に、ナゴヤ球場での巨人戦は4年越しの11連勝中と、負ける要素などどこにもなかった。

 そんなエースを打ち砕いたのが4番だった。2回に右中間席へ運んだ先制ソロ。これは打った落合、打たれた今中ともに「甘めに入ったストレート」で一致している。周囲が思うようなダメージはなかった。落合が今中の心を打ち砕いたのは、3回の適時打だった。1死二塁。前の打席と違い、狙った通りのインコースに143キロのストレートが食い込んだ。

 「手応えはあった。指にかかった、気持ちの入ったボールでした」

 詰まらせた。勝った。そう思った打球は、一塁・大豊泰昭、右翼・彦野利勝ともに届かず、右翼線に落ちた。結果は安打だが、勝負には勝っている。周囲はそう思うが、当事者は逆だ。

 今中4回5失点
 「今ならそう割り切れます。でも、当時はそれができなかった。『オレは勝った。なのに何でヒットになるんや』って…。カンチャン(ポテンヒット)は投手を殺す。そこから先のことは覚えていないんです。記憶が飛んでしまった」

 まだ3回。だがこの一打で事実上、勝負は決した。エースは投げるだけの機械となってしまい、4イニングを5失点で降板。打った落合は裏の守備で左内転筋を痛め、今中より早く試合を退いたのだが、4番の仕事は十分に果たした。

 「あれは結果的にああなっただけで、もう1回打てって言われても打てるもんじゃない。100本に、いや1000本のうち何本あるか…」

 執念でも技術でもなく、偶然だと言う。そして数分後。記憶のデータベースを検索し、偶然の確率を説明した。「あれと同じような球を、同じようなところに打ったことが一度だけある…」

 83年8月2日。落合はまだロッテにいた。川崎での日本ハム戦。先発の高橋一三に抑え込まれ、9回を迎えて0-5だった。1死から落合が左中間にソロ。「焼け石に水ってやつだ。ところがそこからあれよあれよでもう1回、オレに打席が回ってきた」。同点に追い付き、なお2死満塁。投手は江夏豊に代わっていた。内角球を打ち、右翼線ギリギリに落ちるサヨナラ打を打った。「マウンドから降りる江夏さんとすれ違うとき、こう言われたんだ。『よけいなことしやがって』ってな。ホームランのことを言ってるんだよ」。通算9257打席立っている落合が見つけ出した「9257分の2」。それが究極の大一番で出たのだ。

 巨人が激戦制す
 2人の勝負は前年から始まっていた。今中の記憶によると「9月中旬。ナゴヤ球場のロッカールーム」での会話だった。「落合さんは僕にこう言いました。『オレならおまえのカーブをねらう』と。この言葉がずっと頭に残っていましたね」

 導入が決まっていたフリーエージェント(FA)制。今中は落合が権利を行使して移籍するつもりなのだと解釈した。同時に自分との勝負に向け、考えさせるための伏線だと受け止めた。対する落合は、静かに首を横に振った。

 「その会話のことはオレも覚えているよ。でも、オレはこう言ったつもりだ。『おまえのカーブは分かる』と。誰が相手であれ、オレの打撃は真っすぐ待ちだ。変化球は打てるからだよ。変化球には時間がある。打者ってのは時間との戦いなんだ。それにオレの勝負に伏線はない」

 打者の本能で、落合は変化球を察知する。特に今中のような大きなカーブの使い手は、ほんのわずかな腕の振りの緩みを感じ取る。いわば置き土産のつもりだった落合と、伏線だと警戒した今中。ただ、22年がたった今も、エースはストレートを選択したことには一片の後悔も抱いていない。事実、決戦を迎えるまでの2人の対決はほとんどがストレートで29打数6安打、打率2割7厘と今中が圧倒していた。

 この決戦から2年後の96年10月6日。巨人に2-5で敗れ「メークドラマ」は完結した。長嶋が再び宙に舞い、ナゴヤ球場は1軍本拠地としての使命を終えた。(渋谷真)

 ◆ナゴヤ球場アラカルト
 ▼所在地 名古屋市中川区露橋2の12の1

 ▼完成 1948(昭和23)年10月17日に着工し、突貫工事の末わずか45日間で完成させた

 ▼球場開き 工事を急いだ理由は、12月2日に東西対抗(現在のオールスター)開催が決まっていたから。本塁打第1号は藤村富美男(阪神)。賞品は「豊光号」という自転車だった

 ▼規模 総工費4000万円、正式な完成は49年1月15日。両翼91.44メートル、中堅118.9メートル

 ▼神社 2軍本拠地の現在も、バックネット裏スタンドに「球場神社」がある

 ▼竜の胴上げ 54年の日本一、74、88年のリーグ優勝の3度

 ▼負けの歴史 中日の公式戦は黒星で始まり、黒星で終わった。火災後の新装初戦、53年6月25日のナイター開きも負け…

 ▼再生 株式会社中日スタヂアムが73年に倒産。1試合ごとの賃貸契約で球場を使用した。75年に株式会社ナゴヤ球場を設立。翌76年から正式にナゴヤ球場と改称された

 中日スタヂアム 火災で死傷者
 惨劇が起こったのは1951年8月19日。当時は球団名は「名古屋ドラゴンズ」で、球場は「中日スタヂアム」だった。巨人を迎えた3回裏。ネット裏上段から上がった火の手は、瞬く間に広がった。およそ1時間40分後に鎮火されたが、内野席と球場施設はほぼ全焼。周囲の倉庫や民家にも延焼した。観客が木造スタンドの下に捨てていた紙くずや弁当箱に、たばこの火が燃え移ったのが原因とされている。

 「それまでにもぼやが2、3回あったのを覚えています。炎が上がって、一斉に逃げたんです。フェンスをよじ登って、グラウンドに下りたはいいが、逃げ道が分からん。とにかくネット裏とは反対の方へということで、バックスクリーンから外へ出たんです」

 こう証言するのは、一塁側スタンドで兄とともに観戦していた高木守道だ。当時10歳。最初で最後のプロ野球観戦が、とんでもない1日となった。高木が覚えているのは「靴がいっぱい落ちていたこと」。それを裏付けたのが、現在もナゴヤ球場前でお好み焼き店「岬」を営む正木房子(70)だ。

 「外野側にあった家には、井戸水があったんです。当時5歳だった私は火は見ていませんが、大勢の人が逃げてきて『足を洗わせて』とか『近くにげた屋はありますか?』とか言っていたことはよく覚えています」

 フェンスを乗り越え、命からがら逃げる間に履物が脱げたのだ。死者3人、重軽傷者318人。残りシーズンは代替球場で開催し、11月に再建に着工。翌52年4月に鉄筋コンクリート製のスタンドが完成し、収容能力も3万人に増えた。

この記事は2016年06月14日付で、内容は当時のものです。

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