広島市民球場 コイ育んだ郷土愛 判定巡りファン暴徒化も

解体工事中の広島市民球場(2011年8月30日撮影) 拡大

解体工事中の広島市民球場(2011年8月30日撮影)

乱闘の原因となった広島・三村と中日・新宅のタッチプレー(1975年9月10日撮影) 中日選手と乱闘、試合後も中日選手のバスを取り囲む広島ファン(1975年9月10日撮影) 右中間スタンドの残る広島市民球場跡地 当時のままの姿をとどめる広島総合球場(現コカ・コーラウエスト広島総合グランド野球場)

 デイリースポーツ、中日スポーツ、東京中日スポーツ、西日本スポーツによる4紙合同企画「ボクの思い出スタヂアム」。今回は、広島東洋カープ(創設時は広島カープ)の本拠地として、市民に愛された広島総合球場、広島市民球場を取り上げる。(文中敬称略)

 桁違いの“アツさ”
 瀬戸の夕なぎ-。夏の風物詩だ。昼間に吹いていた海からの風が、陸と海水との温度が同じくらいになる夕刻、ピタリ、とやむ。ちょうど、広島市民球場でのナイターが、プレーボールを迎える時間帯だ。

 これがとんでもなく、暑い。また、レフトポール後方からは、強烈な西日が一塁ベンチを照らす(後に巨大な可動式の日よけを設置)。これまた、暑い。

 しかし今はもうなくなった広島市民球場を懐かしむ人は、必ずこの、景色がぼやけるほどのうだるような暑い夏がセットになっているのではないだろうか。

 1957年盛夏(7月22日)。それまで本拠地としていた広島総合球場(現コカ・コーラウエスト広島総合グランド野球場)にはナイター設備がなく、手狭な上たびたび、警備上の問題も起きていたため、広島市内にナイターができる本格球場を、という機運が生まれたのが、その5年前だった。

 50年、2リーグ分立時に誕生した広島は親会社を持たない市民球団(広島野球倶楽部、55年解散し「広島カープ」に移行)の形をとっていた上、チームも弱かった。創設当初は勝利チームが入場者収入の7割を得るというルールがあり、収入が見込めない広島は、選手への給与も滞り、連盟から再三、解散や大洋(現DeNA)との合併などを求められた。

 しかし、できて間もない球団でありながら地元ファンの支持は、すでに圧倒的だった。「ないのなら、作ろう」。石本秀一初代監督が旗振り役となり、チームの存続を県内各地で訴えて回った。その一環が有名な“樽(たる)募金”であり、その延長線上には、新球場(広島市民球場)建設の夢も描かれていた。

 チームは、創設25シーズンで3位が1回(68年、監督・根本陸夫)、あとは4位以下という弱小だったが、「できの悪い子ほどかわいい」を地でいく愛されようだった。

 それは時として、ファンの暴走行為を呼ぶことにもつながった。総合球場時代には、不利な判定をしたと受け止めたファンが審判員を監禁したこともあった。

 赤ヘル元年に事件
 市民球場に移って以降も、たびたび乱入事件があったのだが、クライマックス?はやはり、75年9月10日の中日戦だろう。

 過去1度だけ、3位があった弱小球団は、この年から今にもつながる『赤ヘル』を採用。春先に、その赤ヘルを提言したジョー・ルーツ監督から古葉竹識監督への交代劇などもあった。しかし、26年目を迎えたチームは、快進撃を続けた。

 前年、巨人のV10を阻止した中日と、阪神との三つどもえの首位争いは、広島のうだるような夏を過ぎてもまだ、燃えるような熱気を帯びていた。

 首位広島、2位に1ゲーム差で阪神、そしてさらに2ゲーム差で中日と続く中、迎えた広島対中日25回戦。両軍の闘志がぶつかった。

 初回から、中日・与那嶺要監督は塁審に猛抗議するなど、中日サイドも必死だ。先発・星野仙一は大下剛史、水谷実雄らに死球を与えても平然、自ら本塁打までかっ飛ばして自軍を鼓舞する。

 中日6選手が負傷
 しかし悲願の初優勝が現実味を帯びている広島も、黙ってはいない。3点差を追う9回、疲れの見えた星野から2点を返しなお、2死ながら走者・三村敏之を二塁に置いて、山本浩二が中前打。三村は本塁を狙うが寸前で憤死、ゲームセットとなった。しかしこのタッチプレーを巡り、三村が激高!!の瞬間、ヒートアップしたファンがグラウンドになだれ込み、中日ナインに襲いかかった。

 9月11日付デイリースポーツでは「広島ファン二千人が暴徒化」という見出しで「大島は左目をボクサーのように腫らし(中略)森下コーチが蹴飛ばされ、星野仙が酒をかけられた」と伝えている。

 中日選手6人が負傷し、翌日の同カードは警備上の問題で中止となった。

 「時代」だろう。同日の甲子園では、阪神に敗れた巨人ファンがビン、缶を、阪神ナインに向けて大量に投げ込んでいる。

 ただこの時の広島ファンについては、25年間ため込んだ愛情のマグマが一気に噴出したもの、と思いたい。

 広島の熱い、熱い季節は終わることなく、10月15日、ついに大願成就の時を迎える。

 郷土愛を受け止め、市民と二人三脚のようにチームを育ててきた広島市民球場は今、右中間スタンドの一部を残して更地となっている。(デイリースポーツ・西下 純)

 ◆広島市民球場アラカルト
 ▼開場 1957年7月22日(2010年9月1日閉場)

 ▼所在地 広島市中区基町5の25

 ▼規模 両翼91.4メートル、中堅115.8メートル、収容3万1984人

 ▼初戦 開場2日後の57年7月24日、阪神戦を行った。結果は1-15の敗戦

 ▼心優しい 広島の初優勝は75年、後楽園で。翌年、市民球場で長嶋巨人が初の胴上げ

 ▼おいしい 広島市民球場でファンのおなかを満たしたグルメがカープうどんとむさしのおむすび。マツダスタジアムでも、長蛇の列が途切れない

 ▼くぎ付け ファンの目を引いたのはナインだけではない。90年5月12日の巨人戦では忍者姿の“くも男”がバックネットによじ登った。また2005年にはボール犬ミッキーが大人気に

 広島総合球場 「カープのゆりかご」名を変え今も

1941年完成、50年―57年の本拠地

 広島総合球場は今、コカ・コーラウエスト広島総合グランド野球場と名を変え、存続している。

 いわば「カープのゆりかご」のような存在だった。戦前に完成。広島誕生の1950年から57年7月まで本拠地として機能した。

 市民球場完成後も、球団の持ち物ではなかったため、チームは社会人や高校のグラウンドまで借りて練習することがあった。総合球場も、キャンプ地や練習場としてしばらくは若手鍛錬の場となっていた。

 1950年。この地で入団テストを受け、石本秀一初代監督の目に止まった長谷川良平は後にエースとして197勝を挙げ、65年より監督就任。石本はヘッドコーチとして長谷川を支える時代があった。

 66年のオフ。同年入団の投手・水谷実雄に、石本が声を掛ける。

 「お前、ちょっと打ってみい」

 訳が分からぬまま、水谷は打撃練習に参加する。投手は安仁屋宗八だったと記憶している。

 「そしたら、あの伝説の石本さんが『ええやないか。バッターでいけよ』って言ってくれてなあ」。それが、広島黄金時代のスラッガー・水谷の誕生秘話だ。

 また2年先輩にあたる安仁屋も「入団のあいさつに行ったら白石(勝巳)監督に『ホンマに野球やっとったんか?』って言われてね」。そこから奮起して主力投手となる。それも「総合球場でしごかれたおかげ」という。

 高校時代から同球場で試合をしていたという山本浩二は「渡し船で通った記憶があるよ。懐かしいなあ」と目を細める。

 カープのスターたちの多くが、紛れもなくこの地で生まれ、育った。

 ◆広島総合球場アラカルト
 ▼完成 1941年12月(カープの本拠地利用期間50年1月~57年7月)

 ▼所在地 広島市西区観音新町2の11の124

 ▼規模 両翼92メートル、中堅113メートル、収容人員1万3000人

 ▼命がけ観戦 熱狂的なファンは時に2万人を超えたとも。その場合はファウルグラウンドにロープを張って観客を入れていた

 ▼黒田の先輩 ヤンキースのスター選手、ジョー・ディマジオがマリリン・モンローとの新婚旅行で同球場を訪問。54年2月11日

 ▼実はココ 球団存続のために市民に寄付を頼んだ、いわゆる樽(たる)募金のたるは、初代石本秀一監督の発案で同球場入り口に二つ、設置された

この記事は2016年07月12日付で、内容は当時のものです。

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