ミセス柔道家の先駆者 楢崎教子・福岡教育大監督 アトランタ五輪銅、シドニー五輪銀 「力出し切るため」98年現役復帰

現在は、福岡教育大の監督として学生を指導する楢崎教子さん
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福岡国際女子柔道を前に健闘を誓い合う(左から)楢崎教子、阿武教子、田村亮子、日下部基栄の日本選手たち=1999年12月9日(写真部取材)
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 日本女子柔道では初めて結婚前後に五輪のメダルを手にしたのが1996年アトランタ大会52キロ級銅、2000年シドニー大会同級銀の楢崎(旧姓菅原)教子(福岡教育大監督)だ。シドニー大会48キロ級金の谷(旧姓田村)亮子も、結婚後の04年アテネ大会で金に輝いている。先駆者だった楢崎はアトランタ大会後に結婚し、一度離れた第一線になぜ、戻ったのか。

 菅原姓で取った1996年アトランタの銅。結婚後、2度目の出場となったシドニー大会で頂点を逃し、銀を手にしても悔いはなかった。むしろ「楢崎」としてつかんだメダルに誇りを感じた。「出場できた感謝をかみしめ、力を出し切れた」からだった。

 競技を離れたのはアトランタ翌年の97年。「4歳からけいこを続けて20年。ピークを迎えていたし、精神的にくたびれた」。筑波大の1学年先輩だった兼司と結婚した。

 競技への未練は断ち切ったはずだったが、「五輪で力を出し切れなかったことを悔やんでいた。一度落ちた体力や気力を盛り返し、どこまで極められるかに関心が出た」。98年に復帰した。

 当時の柔道界では、結婚後も競技を続ける選手は珍しく、周囲からは「菅原は終わった」と厳しい目を向けられた。それでも「真摯(しんし)に競技と向き合う姿を見てもらいたかった」とぶれない。アトランタ前の欧州合宿で、出産後のベルギーの選手が夫や子どもの前でけいこをしていた姿が脳裏に焼き付いていた。

 復帰前と比べて疲労の回復が遅く、思うように動かない体にいらだつこともあったが「ラグビーをしていた夫に悩みを聞いてもらい、家事も分担してくれた。支えてもらったのは大きかった」と振り返る。コーチの夫と二人三脚でアトランタから3大会連続で出場した陸上女子トラック長距離の弘山晴美の存在も「私だけが特別じゃない」と励みになった。

■谷亮子と同世代

 同時代を駆け抜けた谷亮子もシドニー大会で金。結婚後のアテネ大会でも金メダルを取った。「彼女の努力する姿は私も含めた多くの人に力と勇気を与え、女子柔道界のレベルを上げる原動力になった。家族の支援を得て競技者としての人生を続けた姿も、多くの人に影響を及ぼしたと思う」と感謝する。

 楢崎が小学生だったころは柔道をする女性が珍しがられた。92年のバルセロナ大会から女子柔道が正式種目となり、今では多くの女性が五輪に憧れ、全国大会で競う。福岡教育大で学生を指導する楢崎は、指導しすぎず、余力を残して学生を卒業させる。「競技者としてではなくても、柔道と関わっていきたいと思ってもらえれば」と願う。 =敬称略
 (末継智章)

 ◆楢崎教子(ならざき・のりこ)1972年9月27日生まれ。神奈川県大和市出身。旧姓菅原。4歳のとき、父親が主宰する同市の道場で柔道を始める。日大藤沢高から筑波大を経て実業団のダイコロへ。96年アトランタ五輪52キロ級で銅、2000年シドニー五輪同級で銀メダル。10年から福岡教育大監督。

=2019/02/10付 西日本スポーツ=

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