平和台球場 西鉄の本拠地、ファン暴発 選手は装甲バスで脱出

毎日の遅延工作に怒ってベンチに殺到した西鉄ファンら。=1952年7月16日
毎日の遅延工作に怒ってベンチに殺到した西鉄ファンら。=1952年7月16日
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警官に囲まれマイクに向かう毎日・湯浅監督=1952年7月16日
警官に囲まれマイクに向かう毎日・湯浅監督=1952年7月16日
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試合終了後、グラウンドの警官とにらみ合うファン=1973年6月1日(写真は一部加工)
試合終了後、グラウンドの警官とにらみ合うファン=1973年6月1日(写真は一部加工)
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機動隊にガードされ引き揚げるロッテナイン=1973年6月1日
機動隊にガードされ引き揚げるロッテナイン=1973年6月1日
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①平和台球場=97年11月に閉鎖。球場跡では今も発掘調査が続く。
①平和台球場=97年11月に閉鎖。球場跡では今も発掘調査が続く。
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閉鎖される平和台球場の名残を惜しむ人たち=1997年11月
閉鎖される平和台球場の名残を惜しむ人たち=1997年11月
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福岡・板付空港に到着したディマジオ(左)とモンロー(右)
福岡・板付空港に到着したディマジオ(左)とモンロー(右)
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②今の福岡市東区にあった香椎野球場
②今の福岡市東区にあった香椎野球場
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 西鉄ライオンズの「野武士軍団」が1956年からV3を達成し、福岡のファンが歓喜した平和台球場(福岡県)。九州は熱狂的なファンが多い土地柄とあって、ファンが暴発する「大事件」が何度も起きている。4紙合同企画の第2回は「平和台事件簿」と題し、西鉄時代の52年、太平洋クラブとなった直後の73、74年の騒動を中心に取り上げる。(敬称略)

 宿舎まで殺到
 プロ野球のフランチャイズ制がスタートした1952(昭和27)年。西鉄ライオンズの本拠地で大事件が起きた。舞台は49年に福岡城跡の舞鶴公園内に造られ、内外野席がまだ土盛りだった平和台球場。7月16日の毎日オリオンズ戦だった。

 翌17日付の西日本新聞は「ファン、審判・別当らを殴る」と報じた。別当とは毎日の主力の別当薫だ。騒動の原因は、4回終了時で4-9とリードされていた毎日の遅延行為。当時はナイター設備がなく、日没ノーゲームを狙ったものだった。

 16日は雨模様で、試合開始は2時間遅れの午後5時。降雨による中断もあった。同7時29分の日没が近づくと、毎日の選手は何度もタイムをかけ、ベンチで水を飲むなどした。球審がノーゲームを宣告すると、グラウンドに乱入したファンに多くの選手が殴られ、流血騒ぎとなった。毎日の湯浅禎夫監督は場内放送で謝罪。警官隊に守られ車で球場を脱出した。

 毎日の宿舎にまでファンが殺到した騒動の責任を問われ、湯浅監督は7月27日に解任。詩人のサトウハチローは18日付の西日本新聞に「相手が気荒い九州人だ。(中略)見えすいた遅延策ではファンがおこるのもあたり前」と寄稿している。

 この「平和台事件」をきっかけにして、54年にナイター設備が完成。この年に西鉄はリーグ初優勝し、56年から全て巨人を下してV3を飾った。58年は3連敗から4連勝したが、当時取材した西日本スポーツの武富一彦は「4連敗じゃどうなるか。福岡のファンが怖くて、選手も必死になった部分があったのでは」と話す。

 中西太、稲尾和久らを擁して黄金時代を築いた西鉄だが、69年オフの“黒い霧事件”で主力選手を失い、70年から3年連続最下位。平和台球場の1試合平均の観客動員数が過去最低の5078人となった72年限りで球団を身売りし、73年に太平洋クラブとなった。

 69年に西鉄に入団して低迷期を支えた大田卓司は、平和台球場を「自分の青春」と話す。その大田も「いつもガラガラだった」スタンドには驚いたという。新経営陣にとって、ホームの観客動員数を増やすことは絶対に必要だった。

 観客動員策で
 新オーナーの中村長芳は、直前まで同じパ・リーグのロッテのオーナー職にあった。中村と行動をともにした取締役の青木一三は自著「プロ野球どいつも、こいつも…」(ブックマン社)に73年の新球団船出にまつわる舞台裏を記している。

 「博多では悪役に徹し、ファンを刺激してみてくれないか」。ロッテの監督はこの年から400勝投手の金田正一。青木とは旧知の仲だった。サービス精神満点のカネやんに、「遺恨対決」という観客動員策への協力を求めたというものだ。

 73年のロッテとの開幕戦は計算通りに盛り上がったが、金田が5月に川崎球場で太平洋に“口撃”を仕掛けると、福岡のファンは異常なまでにヒートアップ。平和台球場に3万人以上を集めた6月1日の試合で敗れると、酒瓶などが大量にグラウンドに投げ込まれた。

 「金田を出せ」と騒ぐファンの興奮は試合後も収まらず、金田監督やロッテの選手は試合後もベンチに缶詰め。午後11時すぎに福岡県警機動隊の投石防止用の金網装甲バスで球場を脱出。球場玄関のガラスは待ち構えた群衆に割られた。

 担当記者だった武富は「“クスリ”が効きすぎたのかな。さすがのカネやんも青ざめていた」と振り返る。当時はファンがグラウンドに乱入することも多かったが、このときの混乱は桁違い。大田も「それだけ福岡は熱狂的なファンが多かったんだろうけど、球場に装甲車が来たのはさすがに驚いた」と話す。

 翌74年もこの「遺恨対決」は尾を引き、5月23日に平和台球場でファンが再び暴発。ロッテ関係者はまたも装甲バスで脱出した。翌24日には福岡中央署が坂井保之球団社長らを呼び、「治安の責任が持てない」と前期の残り2試合の中止を申し入れたほどだった。

 これらの騒動も根本的な観客動員増にはつながらず、球団名が太平洋からクラウンライターに変わった後、成績低迷が続いたライオンズは78年オフに埼玉県所沢市へと去った。平和台球場が再び主を迎えたのは89年。福岡ダイエーホークスの誕生によるものだった。

 福岡ダイエーが平和台球場を本拠地としたのは、89年からの4年間。93年からは福岡ドームに移った。87年の外野スタンド改修工事の際に古代の迎賓館「鴻臚館(こうろかん)」の遺構が見つかっていた平和台球場=①の写真=は97年11月に閉鎖。球場跡では今も発掘調査が続く。 (相島聡司)

 ◆平和台球場アラカルト
 ▼所在地 福岡市中央区城内。球場があった舞鶴公園は桜の名所でもあり、大田卓司は「開幕の季節は桜が福岡城のお堀に映り、本当に美しかった」と話す。

 ▼完成 1948年の第3回国体用のサッカー場が造られ、国体終了後の49年に野球場に改造。野球場開きは同年12月18日の巨人-阪急戦。正式には「平和台野球場」だが、「平和台球場」と呼ばれることが多かった。

 ▼広さ 両翼92メートル、中堅122メートル。53年8月29日の大映戦で中西太が放った中堅スコアボード越えの一撃は推定162メートルといわれる伝説弾。

 ▼収容 当初2万5000人。58年に西鉄が約2億円で全面改修工事を行い、3万5000人収容となった。

 ▼セ・リーグ開幕 2リーグ制となった50年は3月10日に平和台、下関の両球場でセ・リーグが開幕し、平和台では西日本が6-5で広島、巨人が4-0で松竹に勝った。パ・リーグは翌11日に西宮球場で開幕。

 ▼グルメ 球場売店の「ホームランうどん」。博多うどんに丸天と青ネギが入ったシンプルなものだったが、大田は「相手監督のツケで各球場の名物を食べたものだが、平和台のうどんが断トツだった」。

 ▼プロ野球の公式戦ラストゲーム 92年10月1日の福岡ダイエー対近鉄戦。ダイエーはそれまで10連敗していた野茂英雄から8回に広永益隆がソロ本塁打。この1点をルーキーの若田部健一が完封で守りきった。

 ◆太平洋-ロッテのトラブル 1974年5月25日付の西日本スポーツ1面から(原文のまま)

 ▽四十七年十月=太平洋球団誕生開幕ゲームの対ロッテ戦を“遺恨試合”のキャッチフレーズで盛り上げる。開幕戦の平和台球場は大入り。

 ▽四十八年五月三日=川崎球場で太平洋ファンが騒ぎ、金田監督、太平洋を「どん百姓チーム」とののしる。

 ▽六月一日=平和台で太平洋、ロッテに逆転負け。試合中から荒れ出し、グラウンドへビンが投げ込まれる騒ぎ。ロッテナイン、球場にクギづけ。

 ▽六月五日=福岡市は太平洋球団に、平和台の騒動を「暴力ざたは好ましくない」と警告。球団側陳謝。

 ▽四十九年四月二十七日=川崎球場でブロックをめぐり、金田監督、宮寺捕手をキック。選手同士の乱闘事件。止めに入ったビュフォード、金田監督退場、宮寺を含めた三人に制裁金。

 ▽五月=太平洋球団、ロッテとの三連戦を「格闘ポスター」であおる。

 ▽五月十六日=球場管理者の福岡市はポスター撤去を要請。太平洋は中村オーナー命令で撤去。坂井社長、青木専務は減俸処分。

 香椎野球場にディマジオ
 プロ野球が2リーグ制となった1950年。この年の福岡には、パ・リーグの西鉄クリッパーズとセ・リーグの西日本パイレーツがあり、西鉄クリッパーズは香椎野球場(現福岡市東区)=②の写真、春日原球場(現春日市)で主に試合を行っていた。

 ともに戦前に西鉄沿線に造られた球場。51年に西鉄が西日本を吸収合併して誕生した「西鉄ライオンズ」は平和台球場を本拠地とし、春日原球場は53年の公式戦を最後に住宅地となったが、香椎野球場は70年代半ばまで2軍が使っていた。

 54年2月。この香椎野球場で米メジャーの元スーパースターが、日本のプロ選手に打撃を指導した。ヤンキースで41年に現在もメジャー記録の56試合連続安打をマークしたジョー・ディマジオ。新妻の女優マリリン・モンローとの来日だった。

 セ・リーグによる招待だったが、西鉄の河野昭修もディマジオの教えを受けたという。54年の河野は本塁打を前年の1本から13本に増やし、レギュラーを獲得。56年からの西鉄V3には、あの松井秀喜も目指した伝説的スターの力があった?

この記事は2016年02月16日付で、内容は当時のものです。

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