大阪球場 南海本拠地はミナミの超一等地 ヤジに笑い身売りに泣く

1988年、南海ホークス最後の試合に、超満員のファンで埋まった大阪球場
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1988年、最後の試合の日に大阪球場に詰めかけたファン
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大阪球場の思い出を語る藤原満氏
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1955年、オールスターゲームが開催された大阪球場
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1959年、御堂筋パレードで帽子を振る杉浦忠投手(中央左)と野村克也捕手(同右)
1959年、御堂筋パレードで帽子を振る杉浦忠投手(中央左)と野村克也捕手(同右)
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破れ太鼓を真ん中に声援を送るホークスの私設応援団
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1988年、「ナンバの南海どこにもやらん」譲渡が決まり、急傾斜のスタンドには横断幕も
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1988年、ナインが1人ずつ去ったグラウンドで両手を上げ、ファンに別れのあいさつをする杉浦監督
1988年、ナインが1人ずつ去ったグラウンドで両手を上げ、ファンに別れのあいさつをする杉浦監督
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南海時代の藤原満氏
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南海時代の佐々木誠氏
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 西日本スポーツ、中日スポーツ、東京中日スポーツ、デイリースポーツによる4紙合同企画「ボクの思い出スタヂアム」。今回は大阪ミナミの超一等地で威容を誇り、南海ホークスとファンの喜怒哀楽に彩られた大阪球場を取り上げる。(文中敬称略)

 落ちない紙飛行機
 まだ戦争の傷痕が街に残る1950年9月。大阪ミナミの超一等地に「昭和の大阪城」は開場した。他を圧するようにそびえる大阪球場。場所は南海電鉄のターミナル難波駅の隣。野村克也、杉浦忠らが大阪のファンを熱狂させた南海ホークスの本拠地だった。

 特徴的だったのは、37度の急傾斜だった内野スタンド。酔っぱらいが転げ落ちた逸話もあるが、70年代の南海の屋台骨を支えた藤原満(69)=西日本スポーツ評論家=は「飛行機がよく飛んどったけど、これが落ちてこんのや」と振り返る。

 実はこれはファンが飛ばした紙飛行機。「すり鉢状やから、上昇気流が起きるわけ」。超一等地の敷地の狭さをカバーするためのスタンドの急傾斜のせいで、声も反射してよく響く。しかも選手は「すぐそこ」。笑いの本場、大阪人の本能をくすぐる球場だった。

 電鉄3球団しのぎ
 大阪球場の南海、藤井寺球場の近鉄、西宮球場の阪急。80年代までのパ・リーグは電鉄会社を親会社とする在阪3球団がしのぎを削った。ヤジや応援も同様だ。藤原は「阪急の人が面白かったな」と笑うが、いずれ劣らぬ名調子だったという。

 地元の近大OBの藤原に「あの店に大学時代のツケは払うたか」。飲みに出た翌日は「あれからどこいったん?」。監督兼任の野村がグラウンドに姿を見せると、すぐさま「きのう、藤原が悪口言うとったで」。もちろん、悪口なんか言った覚えはないが、とにかくネタは尽きなかった。

 親会社のカラーが濃厚な「鉄道ネタ」も鉄板だった。阪急ファンから「悔しかったら(阪急沿線の高級住宅地の)箕面に住んでみい!」。ミスをした選手への「やった~、やった~、またやった~、○○電車ではよ帰れ~」の合唱も有名だ。

 70年代後半には、阪急ファンから「野球、おもろいか~? わしらはおもろいぞ~」。当時の阪急は75年から3年連続日本一に輝くなど、黄金時代の真っ最中。藤原は「あのころの南海は、何でもやられっぱなしやったなあ」と頭をかく。

 海千山千の浪速っ子がだみ声の「応援合戦」に熱を入れた理由には、大阪球場の立地も影響しているだろう。大阪の盛り場ミナミのど真ん中で、お笑いの吉本興業の劇場や移転前の新歌舞伎座もすぐ近く。芸人もよく姿を見せていたという。

 南海関係の著書も多い永井良和は「ホークスの70年」(ソフトバンク クリエイティブ)に記す。「かつてのプロ野球の応援は、ヤジが中心だった。これは、芝居見物の常連が演者に声をかけるのと同じ系譜のものだといえる」。選手はひいきの役者でもあった。

 吉本興業すぐ近く
 「練習と試合の合間に、先輩によく『鶏そぼろ飯』を買いに行かされたな。練習の後に、横断歩道を渡ってな」。84年に南海に入団し、85年に本拠地で初本塁打を放った佐々木誠(50)=現ソフトバンク3軍打撃コーチ=は愛着ある球場を振り返る。選手と街の距離も驚くほど近かった。

 大阪球場は「娯楽の殿堂」でもあった。これは南海電鉄が85年に発行した「南海沿線百年誌」に詳しい。開場翌年の51年に開設された「文化会館」には土井勝料理学校などの各種文化教室があり、球場併設の卓球場、ボウリング場、アイススケート場、プール、レストランなどもにぎわった。

 63年開設の場外馬券売り場は特に人気を集めたようだ。前述の百年誌には「ギャンブル熱の上昇から次々増設を重ねたほどで、土・日・祝日にはこの辺りは交通整理のガードマンが立つほど人、人、人の波でいっぱいになる」と記されている。

 成績不振とともに
 浪花のファンに愛された大阪球場だが、南海の成績低迷とともに空席も目立つようになった。さらに車社会の到来により、電鉄会社の経営環境も厳しさを増した。沿線住民へのサービスの一環で「持っていることがステータス」とされた球団にも逆風が吹き始めた。

 88年に南海の名物オーナーだった川勝傳が死去すると、同年9月にダイエーへの球団売却が発表された。10月15日の南海の大阪球場ラストゲームは超満員となり、6-4で近鉄に勝利。監督だった杉浦の「行ってまいります」というあいさつを最後に福岡へ旅立った。

 あるじをなくした大阪球場は数奇な運命をたどった。最後のプロ野球公式戦は90年8月2日の近鉄-オリックス戦。その後は関西国際空港の建設などに伴う再開発計画の遅れもあり、住宅展示場として使われたり、ミュージカル「キャッツ」が上演されたりした。

 98年のさよならイベント後に解体されたが、88年の南海ラストゲームで本塁打を放った佐々木は「自分の中に映像が残っている。心に刻んでいる球場。(球場内の)がんこ寿司の看板(の似顔絵)は阪急の今井雄太郎さんにそっくりやったなあ」と話す。跡地に立つ複合商業施設「なんばパークス」には、往時をしのぶ「南海ホークスメモリアルギャラリー」が設けられている。(西日本スポーツ・相島聡司)

 ◆大阪球場アラカルト
 ▼開場 1950年9月12日(当初は「大阪スタヂアム」)

 ▼閉場 1998年11月

 ▼その後 グラウンドを利用した住宅展示場などを経て、現在は大型商業施設「なんばパークス」に。同施設2階コンコースにホームベースの位置を示すタイルが残っている

 ▼所在地 大阪市浪速区難波中2の8の110

 ▼規模 両翼91.5メートル、中堅115.8メートル、収容3万1379人

 ▼所在地補足 元は第二次大戦で焼け野原となった専売局跡地。しかし戦後復興の拠点ともなった大阪ミナミのど真ん中でもあった

 ▼したがって 狭い土地に大観衆を収容できるよう、内野スタンドの斜度は37度と大倉山ジャンプ場より急傾斜に。酔客の転落は風物詩

 ▼本拠チーム 南海ホークス(開場~88年)、近鉄パールス(開場~57年)、大洋松竹ロビンス(53~54年)

 ▼ナイター設備 51年7月18日に完成。甲子園に同施設ができる56年までは阪神主催のナイターもここで行われていた

 ▼逆に 南海ホークスは、大阪球場が完成するまでは甲子園を主球場とし、サブ的に西宮スタジアムも活用していた。48年、2度目の優勝で、本拠地建設ムードが高まり、連合国軍総司令部(GHQ)の許可を経て建設を決定

 ▼球場伝説 南海としては63年10月17日、野村克也のシーズン52本塁打などがあるが、有名なのは54年、阪神・藤村富美男の退場事件、79年、近鉄-広島の日本シリーズでの「江夏の21球」など他チームのものも多い

この記事は2016年08月30日付で、内容は当時のものです。

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