藤崎台県営野球場 熊本野球の聖地 ONが現役最終戦

中堅後方のクスノキが印象的な藤崎台県営野球場
中堅後方のクスノキが印象的な藤崎台県営野球場
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7月10日に藤崎台県営野球場であった熊本大会の開会式で、熊本地震の犠牲者に黙とうをささげる球児たち
7月10日に藤崎台県営野球場であった熊本大会の開会式で、熊本地震の犠牲者に黙とうをささげる球児たち
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八代3年時の秋山
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熊本工3年時の伊東
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王の“現役最後”の本塁打を報じる1980年11月17日付の西日本スポーツ1面
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長嶋茂雄が現役最後の試合に出場した草薙球場
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巨人・クロマティの起こした大乱闘でにらみ合う中日・星野監督と王監督
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 西日本スポーツ、中日スポーツ、東京中日スポーツ、デイリースポーツによる4紙合同企画「ボクの思い出スタヂアム」。前回まで現存しない球場を主に取り上げてきたが、今回は「特別編」として、4月の熊本地震からの復旧が進む藤崎台県営野球場(熊本市中央区)と、草薙球場(静岡市駿河区)を取り上げる。(文中敬称略)

 熊本の球児に朗報が届いたのは、「夏開幕」の約3週間前の6月21日だった。熊本地震で被災した藤崎台県営野球場(以下藤崎台)が、例年通りに熊本大会のメイン会場となることが決定。地震の爪痕が残る球場に今年も球音と歓声が響いた。

 熊本国体を機に1960年10月に完成して以降、熊本大会決勝は藤崎台で行われてきた(改修中だった95年を除く)。「藤崎台は熊本の球児の聖地。俺も一つ勝つことの難しさを教わった」。秋山幸二(54)=西日本スポーツ評論家=は話す。

 エースで4番だった八代3年の80年夏に同校初の決勝進出。同い年の伊東勤(54)=現ロッテ監督=が「3番捕手」だった熊本工との決勝は0-0の4回終了後に降雨ノーゲームとなり、2日後の再戦で6回にライナーの先制ソロを放った。

 「あれで西武が『取ろう』となったんじゃないか。当時は12球団のどの本拠地より広かったと思う」。両翼99メートル、中堅122メートルは当時数少ない国際規格。その左中間席に打ち込んだが「高校時代は打者の記憶があまりないんだよ」と続ける。

 7回に伊東に2ランを浴び、1点リードの9回2死三塁では敬遠。「広い藤崎台で1人に2発は考えにくい。(敬遠で)勝ち越しの走者を出すのは、今の自分の『野球観』にはないな」。直後の3失点で「投手秋山」の最後の夏は終わった。

 西武でともに黄金時代を築いた秋山と伊東だけでなく、多くの名選手が広いグラウンドから巣立った。89年夏は熊本工の前田智徳(45)=元広島=が決勝で逆転2ランを放つなど活躍。打球が速すぎて、テレビカメラが捉えられなかった逸話もある。

 藤崎台は熊本のプロ野球にとっての「聖地」でもある。完成翌年の61年2月にオープン戦(大毎-阪神)、72年4月には公式戦(西鉄-阪急)を初開催。80年11月16日には「世界のホームラン王」王貞治(76)=現ソフトバンク球団会長=が有終のアーチを架けた。

 翌17日付の西日本スポーツ1面は「燃え上がらせた最後の情熱」の見出しで報じた。同4日に現役引退を発表し、この巨人-阪神の秋季オープン戦が“現役最後”の試合。5回の最終打席で、宮田典計から右翼席中段にライナーを打ち込んだ。

 記事には「キャンプもしたし、ホームランも打ったこの球場が現役最後の場になるとは、これも何かの縁でしょう」という試合前の言葉も紹介されている。公式戦の868本塁打に日本シリーズやオープン戦などを加えると、通算1032号となる本塁打だった。

 来月から本格復旧工事
 プロ野球はソフトバンクが今季も4月10日に公式戦を開催。巨人も同19日に中日戦を開催予定だったが、直前の同16日の本震で中止を余儀なくされた。ただ、球場の復旧工事は来年3月までに完了する予定で、来季は問題なく開催できそうだ。

 地震後は屋根を支える鉄骨の一部が曲がったメインスタンドや照明塔など施設の応急対策工事を急ピッチで仕上げ、高校野球の開催にこぎ着けた。現時点で左翼スタンドなどに立ち入り禁止区域も残るが、10月には本格的な復旧工事が始まる。

 復旧費用は3億6000万円が見込まれる。6月にはソフトバンクの松坂大輔(36)、摂津正(34)の両投手がそれぞれ1000万円、300万円を寄付。球場を管理する熊本県スポーツ振興事業団の葵大二郎(50)は「本当にありがたいことです」と感謝する。

 今夏の収容可能人数は被災前から2400人減の1万2600人となったが、熊本大会の準決勝や決勝には1万人以上が詰めかけた。葵も「スタンドが9割以上埋まった。県民のみなさんの思いを感じた」と話す。野球熱の高い熊本の「聖地」は、復興へ歩む人々を勇気づける存在でもある。(西日本スポーツ・相島聡司)

 ◆藤崎台県営野球場アラカルト
 ▼完成 1960年10月4日。73年8月にナイター施設も完成

 ▼所在地 熊本市中央区宮内4の1

 ▼歴史 1877年の西南戦争で焼失し、同市内の市街地に移った藤崎八旛宮(935年創建)があったことから「藤崎台」と呼ばれる

 ▼天然記念物 中堅後方の7本のクスノキは1924年に国の天然記念物に指定。最大の1本は推定樹齢1000年で幹囲20メートル、樹高27メートル。秋山も「クスノキがあるから、球場の雰囲気がいいよね」と話す

 ▼樹木医 天然記念物でクスノキの枝が切れないため、枝に当たった場合のローカルルールがあった。数年前に樹木医とともにグラウンドに枝がはみ出ないようにロープで固定した

 ▼スコアボード クスノキがあるため、スコアボードは右中間側にずれる形で設置されている。バックスクリーンは熊本地震で上部が崩れたが、復旧している=写真

 ▼熊本大会 今夏は藤崎台、県営八代球場、山鹿市民球場の3球場で開催。秀岳館が優勝し、甲子園では春夏連続の4強に進んだ。熊本県勢は58年春の選抜を済々黌が制したが、夏の選手権は熊本工の準優勝(3度)が最高成績

 草薙球場 長嶋、メッツ戦で2安打

親善試合に出場

 ミスタープロ野球・長嶋茂雄がバットを置いた場所。それが草薙球場だ。1974(昭和49)年11月20日、親善野球のため来日していたニューヨーク・メッツとの最終戦だった。

 長嶋が後楽園での引退試合に臨んだのが10月14日。「わが巨人軍は永久に不滅です」の言葉はあまりに有名だが、閉幕後の親善試合に出場を続けていた。いわばアンコール興行。全国を転戦し、多くのファンが引退を惜しんだが、ついに最後の瞬間はやってきた。

 同じ草薙で沢村栄治が全米選抜を相手に快投を演じたのも、40年前の11月20日。「4番・三塁」で出場した長嶋は、左翼線への二塁打と左前適時打を放ち、3万人の観衆から喝采を浴びた。

 「現役はこれが最後。いろいろな感傷もあるが、よく打ったね。われながらそう思うよ」

 当時の長嶋はさわやかに語っている。なおこの試合で本塁打を放ったのがジョー・トーリ。のちに長嶋は巨人で、トーリはヤンキースで松井秀喜と師弟関係を結ぶことになる。また10連覇を逸し、監督を退いた川上哲治にとってもこれがラストゲーム。この翌日には長嶋の監督就任会見が行われた。(渋谷真)

 ◆草薙球場アラカルト
 ▼名称 正式には静岡県草薙総合運動場野球場

 ▼開場 1930(昭和5)年7月15日。静岡電気鉄道(現静岡鉄道)がつくり、39年に県に寄付された

 ▼規模 当初は両翼91メートル、中堅115メートル。2度の大規模改修をへて、現在は両翼100メートル、中堅122メートル、収容人数は2万1656人

 ▼スクールボーイ プロ野球誕生以前の34年11月20日、日米野球が開催され、京都商を中退したばかりの沢村栄治がルー・ゲーリッグの本塁打による1失点で完投。敗れはしたが、ベーブ・ルースからを含め、9奪三振の快投は伝説となっている

 ▼史跡 球場内には当時の本塁を示す位置が保存されており、見学できる=写真左。また、球場前には沢村とルースの像が建立されている

 藤崎台 クロマティの殴打事件も
 「藤崎台」といえば、今も忘れられないのがウォーレン・クロマティ(巨人)による「宮下昌己殴打事件」だろう。1987(昭和62)年6月11日。死球に激高したクロマティが「謝れ」とマウンドに詰め寄る。星野イズムが浸透していた宮下も帽子は取らない。右クロスが一閃(いっせん)…。

 「宮下が逃げなかったのは見えていたけど、2人がどんな会話をしていたかは、後日わかったことなんです。宮下とは何度か飲みにも行ったけど、気の良いやつでした」

 その一部始終を中日スポーツの番記者として目撃したのが、増田護(現月刊ドラゴンズ編集長)だ。試合後も取材に追われ、選手宿舎に直行。熊本の旧友と再会する約束は吹き飛んだ。

 通算255イニング1/3を投げ7死球と宮下の制球力は決して悪くなかった。現役引退後の2007年、増田の取材に故意だったと認めた上で、謝らないと決めていたことを告白した。

この記事は2016年09月20日付で、内容は当時のものです。

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