ライオンズOB会長・高倉照幸氏逝く 西鉄野武士軍団の「切り込み隊長」

「ライオンズOB会」の会長としても尽力した高倉照幸さん(2017年12月)
「ライオンズOB会」の会長としても尽力した高倉照幸さん(2017年12月)
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西鉄ライオンズの切り込み隊長として活躍した高倉氏(1957年当時)
西鉄ライオンズの切り込み隊長として活躍した高倉氏(1957年当時)
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1963年の阪急戦(平和台球場)で満塁本塁打を放ち、西鉄の中西監督(右)に迎えられる高倉氏
1963年の阪急戦(平和台球場)で満塁本塁打を放ち、西鉄の中西監督(右)に迎えられる高倉氏
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■北九州市出身

 プロ野球、西鉄ライオンズ(現西武)黄金期の1番打者として活躍したライオンズOB会長の高倉照幸(たかくら・てるゆき)氏が12日午前5時半、病気のため福岡市内の病院で死去した。83歳。北九州市出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。

 戦時中に熊本へ疎開。熊本商高から1953年に西鉄に入団し、翌54年に中堅のレギュラーに定着。福岡市の平和台球場を舞台に同期入団の豊田泰光や中西太、大下弘らと「流線形打線」を形成し「野武士軍団」の切り込み隊長として56年からの3年連続日本一に貢献した。59、64、66年にベストナインを獲得。67年に巨人に移籍して王、長嶋に続く5番を任された。69年にアトムズ(現ヤクルト)移籍後、70年限りで現役を引退。通算成績は1793試合に出場し、1611安打、打率2割7分6厘、168本塁打、640打点、178盗塁。

■巨人では5番

 引退後は西日本スポーツなどでの評論家活動や少年野球チーム「福岡南リトルシニア」の指導に尽力し、2016年に西鉄ライオンズOB会の会長に就任。1973年に太平洋クラブとなって以降のライオンズOBにも入会してもらおうと、2017年にOB会の名称から「西鉄」を外し「ライオンズOB会」とした。その直後の訃報だった。

    ◇      ◇

■83歳永遠のライオンズ愛

 高倉氏はライオンズの黄金期を後世に長く伝えていきたいとの強い思いを抱くとともに、自身が選手として生きた西鉄だけでなく、その歴史を受け継いだ太平洋クラブやクラウンライター、現在の西武を含めた選手、OBの幅広い交流の場をつくる夢を描いていた。

 昨年12月下旬、高倉氏とランチを共にしながら話をした。西鉄が日本シリーズでいずれも巨人を倒して3連覇した黄金期を知るOBは今や数少ない。OB会長の同氏自身が貴重な当時の語り部であり、球団が変遷したライオンズの歴史のつなぎ手であると強く思わされるひとときだった。

 黄金期の異名は「切り込み隊長」。ランチタイムでは「初球からどんどん打つ、珍しい1番打者だった」と笑いながら教えてくれた。当時の三原脩監督に「おまえは1番打者の意味が分かるか。ボールをよく見て、四球での出塁でもいいんだ」と諭されたという。

 だが、スタイルは変わらなかった。「性格的に1球目から打ちたかった。だから、いいところでホームランも打てたんじゃないかな」。初球を捉えての通算初回先頭打者本塁打はパ・リーグ史上1位の8本で、ライオンズ通算500号もマークした。

 西鉄が出場した5度の日本シリーズ全てを経験したのは高倉氏と中西太氏だけ。「いい選手生活を送れたと思う」と懐かしみながら「西鉄OBはこれから減りこそすれ、増えることはない。ライオンズのユニホームを着た人たちに広く入ってもらって、OB会を発展させたい」と明かした。83歳の夢がいつかかなうことを願う。 (安部裕視)

=2018/02/13付 西日本スポーツ=

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