有吉辰也、仲間との絆支えに 引退覚悟のけがから復活飯塚オートの天才レーサー

3月17日の飯塚開催準決で42歳のバースデーを白星で飾った有吉辰也
3月17日の飯塚開催準決で42歳のバースデーを白星で飾った有吉辰也
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2017年のオートレース選手表彰式で「平尾昌晃賞」を受賞した有吉
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昨年11月の浜松SG日本選手権準決9Rで2番手を走る有吉辰也(2号車)
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浜松日本選手権で4年半ぶりにSG優出を果たし、笑顔の有吉
浜松日本選手権で4年半ぶりにSG優出を果たし、笑顔の有吉
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 有吉辰也(42)=飯塚=が2月26日、東京都内のホテルであった2017年のオートレース選手表彰式で、今回から新たに設けられた「平尾昌晃賞」を受賞。2013年9月の飯塚で落車し骨盤骨折するなど、オートレーサー人生を左右するほどの大けがを乗り越えてSG、G1の大舞台で優出を果たし、多くのファンに感動と勇気を与えたことが評価された。かつて全国ランク1位の座にも就いたことがある天才レーサーが、再び第一線で活躍できるようになるまで、どんなに苦しい道のりを歩んできたのか、復活までの軌跡をたどってみた。 (三島隆助)

 ■かつては全国1位

 周囲の支えなくしては、“奇跡の復活劇”はなかった。「今の自分があるのは、みんなのおかげ。みんながいなかったら辞めていたと思う。感謝しかない」。再びバンクに立つ強い気持ちを取り戻させてくれた仲間に、感謝の言葉を繰り返した。

 「もうダメ。全くついていけない。引退します」。2015年11月。川口での開催を(7)(8)(8)(7)の惨敗で終えた有吉は、ついに苦渋の決断をした。同じ川口にあっせんされていた先輩、同期には、その場で伝えたが、衝撃の引退宣言は素早く他の仲間にも伝わった。川口から福岡に戻ってきた、その日のうちに先輩選手から呼び出され、福岡市内のある店へ。すでに多くの仲間が集まっていた。「待て。引退はいつでもできる。よく考えろ」。先輩や同期からの説得に心は揺れた。

 ■「精神強くなった」

 それでも「今の体、精神状態じゃ走れない」と決心は固かった。そこで、とりあえずオートと離れる期間を設けることに。そこから「体のリハビリも兼ねた“心のリハビリ”」が始まった。「本当にその期間は、いろんなことを考えた。レース中に事故死した同期の秀樹(永井)はまだ走りたかっただろうなぁ、とか…。それに、やっぱりオート、仲間が好き。またみんなと走りたくなった」。けがから復帰して以降、精神面、整備面など、あらゆる側面で強力にサポートしてくれた仲間の気持ちを考えると、挫折することは到底できなかった。

 再びバンクに立つ決意をした後は、成績が悪くても、落車してへこむことがあっても、決して後ろ向きになることはなかった。けがの影響は、いろんな部分でマイナスに働いたかもしれない。しかし、どん底を味わった分、「精神的に強くなった」のは確か。今なら調子が悪く苦しんでいる選手にも「以前と違ったアドバイスができると思う」。つらくて苦しい経験も「結果的にはプラスになったかな」と思える日はそう遠くはない。

 ■有吉辰也一問一答

 -7年ぶりに表彰式の舞台に立った感想は。

 「やっぱりいいねぇ。もう表彰されることはないと思っていたので、評価されたことは素直にうれしい」

 -大けがを克服したことが評価されての受賞だが。

 「自分の力だけで、ここまでこられたわけじゃない。仲間の支えがあったからこそ。それだけは絶対に忘れてはいけない。今回も改めて、みんなに感謝できるいい機会になった」

 -ここまで来るのに大変な苦労があったと思うが。

 「もともと怠けるタイプなのでね。けがをしたあとは、選手になって一番、手を動かしたと思う。練習も一番したんじゃないかな」

 -一番苦労したのは。

 「やっぱり腰周りが一番。けがの影響で足が出ないから、少しでもコーナーでバランスが取れるように、といろいろと苦労した」

 -現状の復活度は何パーセント。

 「どの時点で復活なのかは…。数字では表せない。でも“復活”と言われると、その気になるし、やるしかないと思わせるよね」

 -今回の受賞で周囲に恩返しができたのでは。

 「賞をもらったからみんなに恩を返せたというのではなく、毎レース、そういう気持ちで走っている」

 -4月からの新ランクで7期ぶりにS級復帰だが。

 「信じられない。これも、またみんなに感謝できる、ひとつの出来事かな」

 -次の目標は。

 「まだ定まっていないけど、とりあえずグレード戦の優勝かな。でもスーパースターには出たいなぁ」

 -ファンにひと言。

 「自分が辞めるのは、体がボロボロになった時。大好きなゴルフができているうちは、オートも頑張ります。今後とも応援をよろしくお願いします」

 ■有吉辰也復活までの軌跡

 有吉に悲劇が襲ったのは2013年9月の飯塚開催だった。競走中の落車事故で骨盤骨折、股関節脱臼骨折の大けが。長期入院、リハビリを経て14年4月に復帰したが、以前のように、うまく競走車を操ることはできなくなっていた。落車の不運も続き、そのたびに「自分が落ちるだけならいいが、他の選手まで巻き添えにするかも」と悩んだ。常に“引退”という最悪の選択肢を頭の片隅に置いて走らなければならなかった。

 かつて最優秀選手賞にも輝いたレース巧者は、新人時代に戻ったつもりで、まずは「普通に乗れる」よう日々、当時の体の状況に合った乗り方を探し求めた。そして、その成果は出はじめ、けがの影響が残る左足をカバーできる腰周りへと、わずかながらも近づいてはいた。それでも最高ハンディ(H)から何人もの選手を抜いていくには、厳しい状況に変わりはなかった。

 低空飛行は長引き、同11月あたりからハンディも最高Hから10メートル軽化。これで流れが変わった。展開的に楽になったことで成績もじわりと上昇。すると15年5月の飯塚開催で復帰後初優出(4)。いい流れを維持したまま、同7月の飯塚開催で復帰後初Vを挙げた。

 しかし、「まさか優勝ができるとは…」と喜んだのもつかの間。すぐにどん底へ突き落とされた。同8月の飯塚G1ダイヤモンドレースで節間に2度も落車。これで完全にリズムが狂った。そして全く精彩を欠いた同11月の川口開催の直後。ついにオート界から退く決意を固めた。

 それでも仲間の説得で撤回。しばらくは、リハビリに専念することにした。レースに復帰したのは16年2月。「落ち込んでいても仕方がない。やるしかない」と、気持ちだけはしっかりと切り替えた。レースでは最高Hと、その10メートル前を行ったり来たりだったが、レース数を重ねるうちに左足も上がり始め、復活へ明るい兆しは見え始めていた。

 同9月の飯塚開催で復帰後2度目のV。最重Hの10メートル前ながら良走路で勝てたことは「自信になった」。以前のようにひどくリズムを壊すことは少なくなり、17年7月の浜松開催では、復帰後の遠征初Vを挙げた。「この頃からかな、エンジン、タイヤともに良ければ、今の体の状態でも優勝争いができると思ったのは」。条件さえ整えば、活躍できるという確かな手応えを、ようやくつかめた。

 そして同11月の浜松SG日本選手権。オート界で最も格式が高いとされる大会で、初日から堂々の走りを披露。実に4年半ぶりのSG優出を決めた。自らも想像すらできなかった結果に、「まさか再び、こんな日が来るとはねぇ」。本人でさえ驚く快走劇は、“有吉復活”を心から願う多くのファンの心も打った。

◆有吉辰也(ありよし・たつや)1976年3月17日、福岡県嘉麻市(旧嘉穂郡碓井町)生まれ。山田高卒業。166センチ、53キロ、血液型B。25期生として97年4月に選手登録。同期には永井大介、森且行、岩崎亮一らがいる。2008年4月の浜松オールスターでSG初制覇。10年には最優秀選手賞、賞金王に輝いた。10年後期ランクで初の全国1位を獲得。07年2月の川口全日本選抜から10年11月の飯塚日本選手権まで続けたSG19連続優出記録は今も破られていない。通算695勝、46V(SG3、G1 12、G2 4)※成績は3月25日現在。

 【平尾昌晃賞とは】 発走前のファンファーレ、川口オートのテーマソング「ぶっちぎりの青春」を作曲したほか、表彰選手の選考委員も務めるなど、オート界に多大なる功績を残し、昨年7月に亡くなられた作曲家、歌手の平尾昌晃さんを記念して、今回から制定された賞。オートの社会的評価を高める功績があった選手や、その他表彰するに足る活躍が認められた選手に贈られる。

 【腰周りとは】 通常は、膝当て、ステップ、サドルの部分を指す。時には、これにハンドルを入れることもある。腰周りを調整して乗車姿勢がしっかりと固定されていれば、G(重力)がかかるコーナーでも競走車を寝かせて速く回れる。乗り方に合った調整をするので選手それぞれで調整は違う。

 【オートレースとは】 ボートレース、競輪、競馬と並ぶ公営競技の一つで、伊勢崎(群馬県)、川口(埼玉県)、浜松(静岡県)、山陽(山口県)、飯塚(福岡県)の5場で開催。選手数は全場合わせて397人。レースは、1周500メートルの競走路を、通常は8車が6周回を走って順位を競う。迫力あるレースにするため、速い選手は後方、遅い選手は前方のスタートラインから発走するハンディレースを採用。競走車は600CC(新人はデビュー後一定期間500CCに乗車)の専用エンジンで、ブレーキはない。ハンドルも左が高く、右が低い独特なスタイル。直線部で最高150キロとなるスピードは、公営競技最速。

 【飯塚オート】 1957年2月に開設。67年10月に現在地に移転し、舗装路になった。75年には最高で1日に3万人が詰め掛けたことも。ピークの91年度には424億円を売り上げた。市財政への繰り出し金は通算で587億円にも上る。2015年度からは運営を民間企業に委託。委託先は車券など投票券の発売機や集計システムを手掛ける日本トーター(東京)。

 現在の飯塚所属選手数は昨年8月にデビューした飯塚初の女子選手3人を含めて69人。4月から適用の18年度前期ランクではS級9人、A級40人、B級20人。

=2018/03/29付 西日本スポーツ=

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