戦後70年へ -証言をつなぐ-

いろんな見方あっていい だが忘れないでほしい

知覧特攻平和会館  板津 忠正初代館長(89)

板津 忠正さん

 必ず死ぬ運命にある。だが、その日がいつ来るか分からない。そんな特攻隊員としての毎日をどう送ったのか-。みなさんからよく聞かれるが、顔が引きつるとか、泣き叫ぶとか、そんなことはなかった。今の人たちの感覚では理解できないだろう。そういう時代だったとしか言えない。

 大空に憧れ、民間パイロットを目指したが、やがて戦争に巻き込まれた。お国のために志願したのだ。命は惜しくなかった。ただ、米戦闘機と食うか食われるかの戦いを、一度きりしかできないことだけが心残りだった。

 旧陸軍加古川飛行場(兵庫県)で戦闘訓練を受けていた1945年4月、特攻要員としての命令を受けた。20歳だった。両親と小学校の先生宛てに遺書を書いた。感謝の気持ちを伝え、「男子の本懐、これに勝るものなし」と書いた。

特攻隊員たちが出撃前に生活した三角兵舎の様子

出撃前の板津忠正さん(左)。中央は「特攻の母」として隊員たちに親しまれた軍の指定食堂「富屋食堂」の鳥浜トメさん

 出撃したのは同年5月28日。知覧飛行場に移動して2日後だった。特攻隊員たちは前夜、森にある「三角兵舎」と呼ばれる宿舎で寝る。私はいつも熟睡するが、その日は午前3時ごろ目が覚めて外に出た。満月が見え、出撃日和だと思った。

 午前5時ごろ、飛び立った。2時間後には「十死零生」の覚悟だった。搭乗した九七式戦闘機の機関銃は外され、攻撃手段は体当たりしかなかった。

 沖縄の戦域まであと30分。エンジンがプスップスッと音を立て、計器が震えた。250キロ爆弾を海に落とし、飛行を試みたが、エンジンが止まった。ようやく見つけた徳之島(鹿児島県)の砂浜に突っ込み、機体はあおむけになった。

 けがはなく、島民に助けられ、島伝いに知覧まで戻った。その後、出撃命令を2度受けたが、いずれも雨で中止。6月23日に沖縄が陥落し、私たちの特攻は終わった。

 終戦を知ったのは8月16日。「日本は負けた。即(古里へ)帰れ」と上官から告げられた。15日には総特攻命令が出ていたが、突然中止になり、おかしいと思っていた。玉音放送は聞かされなかった。あっけに取られた感じだった。


 私が苦しんだのは、むしろ戦後だった。生き残った隊員の中には戦後、自決した人も少なくなかった。自分は自決する勇気さえなく、のうのうと生きている。その悔恨だった。

 復員後は名古屋市役所に入った。夜間は工業高校に通い、測量技師の資格を取得し、主に区画整理事業にあたった。仕事に没頭することで忘れようとした。だが、戦後復興が進み、日本が豊かになっていくほど、死んでいった戦友たちを思い出した。

 だから、市役所に勤めている間も、休みを利用しては、マイカーで遺族を訪ね回った。般若心経を唱え、生き残ったことをわび、知っている限りの出撃前の様子を伝えた。息子全員が戦死し、一家が断絶したケースもあった。

 定年を待たず79年、市役所を辞めた。都市計画課長だったが、戦争で亡くなった人が、忘れ去られることに耐えられなかった。風化させたくない、その一念だった。北海道から九州まで、慰霊の全国行脚を続けながら、遺族からは遺書や手紙を借りてコピー、遺影はカメラに収めた。

 そうして集まっていったのが、沖縄戦で戦死した旧陸軍の特攻隊員1036人の遺影や遺書、遺品だ。遺族から寄付を受け、現物を知覧特攻平和会館に展示している。87年の開館時、私は初代館長を務めていたが、当初はまだ遺影の約6割しかそろっておらず、空白が目立った。館長を辞め、再び全国行脚を始めた。全員の遺影がそろったのは94年。戦後50年を迎えようとしていた。長い鎮魂の旅路だった。


 生きていて良かった。そう思えるようになったのはそのころからでしょうか。

知覧特攻平和会館に展示されている1036人の遺影。手前のガラスケースには遺書や手紙が並ぶ

 戦争を憎いと思う。二度とあってはならない。だが、特攻を国賊、無駄死に、戦争の美化だという捉え方が、私には耐え難かった。それが私の活動の原動力だったと思う。特攻についていろんな見方があっていい。だが、戦争が生み出した一つの事実であり、いつまでも忘れないでもらいたいのだ。

 知覧特攻平和会館には今、いろんな人が足を運んでくれるようになった。私が館長を務めていたころはなかったが、今では年間600校の小中高校生が修学旅行などで訪れてくれる。暴走族や事業でつまずいた人たちも訪れ、何かを感じ取って帰っていく。特攻へのまなざしも時代とともに変わってきている。

 戦後70年を前に、私たち日本人はどこに向かおうとしているのでしょうか。彼らの生と死は、いまの日本が失いかけている何か大切なことを訴えているように、私には思える。老若男女が同じ心を持って人に接することの大切さ、思いやりの心、家族愛とか。

 講演を求められると、「特攻の真実と平和」「人間の尊厳と命」という演題で語っている。今もテニスを楽しみ、体力を鍛えているが、来年は90歳。もう体力は限界に近づいている。

(愛知県犬山市)


=2014/07/29付 西日本新聞朝刊=