地の果てから パキスタン北西辺境の人々
コーナー

「地の果てから パキスタン北西辺境の人々」

1987年9~10月に本紙夕刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「地の果てから パキスタン北西辺境の人々」(全17回)

1987 10/6 0:00
国際

地の果てから(17) <おごり>日本の精神的退廃を見る【中村哲医師寄稿】

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 日本は確実に先進国の仲間入りをした。と私がこのペシャワールくんだりで実感するのは、何も日本商品が市場を席巻しているからではない。

1987 10/5 0:00
国際

地の果てから(16) <戦争と難民>援助と密輸で繁栄する街【中村哲医師寄稿】

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 もろもろの山と丘とは義によって民に平和を与えるように。彼は民の貧しい者の訴えを弁護し、乏しい者に救いを与え、しえたげる者を打ち砕くように。

1987 10/3 0:00
国際

地の果てから(15) <ふるさと>(下)難民の悲哀を背負って…【中村哲医師寄稿】

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 病棟での多くのできごと、病棟の偽善的な態度、患者同士の対立、なぐりあい、乞食のような患者の態度、スタッフ同士のいがみ合い……感受性の豊かな少年の眼にはこれらのことがどんなに気落ちさせるか、察して余りがある。いつしか様々の不平が、若者にありがちな強い正義感で増幅され、うちとけにくくなっていくのを私は感じていた。

1987 10/2 0:00
国際

地の果てから(14) <ふるさと>(上)いつかは父が迎えに来る【中村哲医師寄稿】

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 彼はアフガニスタンからやってきた。年齢は自分でもよく知らない。

1987 9/26 0:00
国際

地の果てから(13) <少数者>回教社会のキリスト教徒【中村哲医師寄稿】

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 パキスタンにおける「少数者」、キリスト教徒たちの問題を考えるようになったのは、病院内におけるハンセン病棟の管理体制からである。我々の病棟は私が赴任した一九八四年が二十床で、三年間で五十床に増え、スタッフも助手や掃除夫まで入れると八人から十四人となった。

1987 9/25 0:00
国際

地の果てから(12) <偏見>近代化でひどくなる迫害【中村哲医師寄稿】

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 パキスタン北西辺境州の特殊性の一つは、巨大なヒンズークシ山脈とその支脈によって各地域が分断され、割拠性が著しいことである。例えば北部辺境では、チトラル、ヌーリスタン、フンザ、コーヒスタン等の地域は全く異なる独自の言語をそれぞれに持つ小国家群と言える。

1987 9/22 0:00
国際

地の果てから(11) <サンダル工房>人々の善意と努力の結晶【中村哲医師寄稿】

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 足底潰瘍(うらきず)については既に述べたが、病棟の仕事の半分はこのうらきずとの闘いに明け暮れたといってよい。いくら口をすっぱく述べても、せっかく治った患者が数カ月後にはまた同様の状態で舞い戻ってくる。

1987 9/21 0:00
国際

地の果てから(10) <小さな努力>編みものとハンセン病【中村哲医師寄稿】

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 ハンセン病の仕事から、よくある病院の診療風景を想像してはいけない。 時々私の名を聞きつけてやってくる日本人たちがいる。

1987 9/19 0:00
国際

地の果てから(9) <アフガン難民>④戦いこそ生きがいの男達【中村哲医師寄稿】

9

 ドライバーを入れてわずか五名の我々のチームは、難民キャンプに入る際には必ず、全部族民の尊敬の対象となりうる人物の客人となって、ここを基地にキャンプ回りをする。やむを得ぬ場合はキャンプ内に泊まるが、その場合は「有力者」の家ではなくごく一般の元農民の家に泊まることにしている。

1987 9/18 0:00
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地の果てから(8) <アフガン難民>③市場に並ぶ銃器類と麻薬【中村哲医師寄稿】

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 一九八七年一月に私は初めてアフガニスタンとの国境地帯であるバジョワルに入った。バジョワル管区(部族自治区)は、アフガニスタンのクナール川に隣接し、いずれもハンセン病の多発地帯で、目的は十九カ所約二十万人の難民キャンプでの疫学調査にあった。

1987 9/16 0:00
国際

地の果てから(7) <アフガン難民>②国境のハンセン病患者達【中村哲医師寄稿】

7

 カラチ本部の基本的な態度そのものには私も賛成していた。それは北西辺境州を中心としてみると、アフガン住民との婚姻関係を含む人々の往来が盛んなこの地域で、アフガン患者のコントロール計画が進まなければハンセン病問題は解決しないからである。

1987 9/14 0:00
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地の果てから(6) <アフガン難民>①ソ連軍侵攻で400万人流入【中村哲医師寄稿】

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 パキスタン北西辺境州での活動を述べるには、どうしてもアフガン難民について語らざるを得ない。一九七九年のソ連軍介入後、難民は爆発的に増加し、一九八六年末までにパキスタン全土で四百万人に迫った。

1987 9/12 0:00
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地の果てから(5) <復讐>辺境住民の中世的な心情【中村哲医師寄稿】

5

 バダル(復讐)の習慣は辺境に根強く、我々が仕事の上で手をやくものの一つである。復讐はパターン部族の伝統的な掟でもあり、さしずめ「仇討ち」と考えてもよい。

1987 9/11 0:00
国際

地の果てから(4) <生活意識>建前の影のしたたかさ【中村哲医師寄稿】

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 ペシャワール・ミッション病院のハンセン病棟の収容力は赴任当時(一九八四年)の二十床から現在五十床となり、わが病棟での登録数は千三百人、北西辺境州全体では四千数百人に達した。病棟に入院するものは在院日数を考慮するとアフガン国籍の者(たいてい難民)が約半数を占め、パキスタン国籍の者でも自治区や国境地帯から来るもので占められている。

1987 9/9 0:00
国際

地の果てから(3) <物乞い>自尊心を守る必死の営み【中村哲医師寄稿】

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 パキスタン北西辺境州の九割を占めるのがパターン部族で、人口約千五百万人を超える世界最大の部族社会といわれている。約半分がアフガニスタン側に住む多数派民族でもある。

1987 9/8 0:00
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地の果てから(2) <ハンセン病>医師としてやるべきこと【中村哲医師寄稿】

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 一九八二年に、JOCS(日本基督教海外医療協力会)の意をくんで医療協力対象の候補であるペシャワール・ミッション病院に下見に赴いたことがある。 病院は一八九〇年に設立された由緒あるものであるが、現在では市中にカイバル医学校付属病院、公営の卒後研修病院が設立され、昔日の権威はなくなった。

1987 9/7 0:17
国際

地の果てから(1) <出会い>美しい山…悲惨な病人【中村哲医師寄稿】

1

 一九八四年五月二十八日、 私はパキスタンのイスラマバード空港に降りたった。日本基督教海外医療協力会(JOCS)より派遣され、パキスタン北西辺境州のペシャワールで医療協力を行うためである。

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