
「戦後70年特集」
戦争の記憶を風化させず、不戦の誓いを揺るぎないものにすることは新聞の使命です。戦前、戦中、戦後の混乱期を生き抜いた方々から、後世に伝えて残したい証言や資料などを募り、日本の歩みと未来のあり方を考えます。
児童が手作業で掘削 防空壕跡の無窮洞
長崎県佐世保市の南部、川棚町との境界近くに旧国民学校の児童が手作業で掘った防空壕(ごう)跡「無窮洞(むきゅうどう)」がある。太平洋戦争中、この上空にも軍港・佐世保市街へ向かう米軍機が頻繁に来た。
[二・二六事件] 1面トップは「空白」
1936年2月27日夕刊の1面トップは、福岡日日新聞=(2)上、九州日報=(2)下=とも前代未聞の「空白」となった。前日の未明、陸軍青年将校らが首相官邸などを襲撃して大臣らを殺害した二・二六事件が起きている。
[原爆] 全滅でも「被害は僅少」
〈B29少数機は六日午前八時二十分頃広島市に侵入焼夷弾ならびに爆弾攻撃を行って脱去した、損害目下調査中〉 一瞬で数万人の命を奪った広島原爆の一報は、投下翌日の西日本新聞1945年8月7日付に、わずか49字=(3)。当時は広島に支局があったが、原爆にのみこまれ、永瀬岩男記者と事務員の片山イヤノさんが犠牲になった。
心の傷、寄り添う3世 臨床心理士・山下さん
被爆者団体が存続の危機に直面する一方で、被爆の体験を口にしないまま亡くなっていく被爆者も少なくない。なぜ語ろうとしないのか、胸の内に迫ろうと、被爆3世の山下弥恵さん(28)=福岡県宗像市=は臨床心理の面から研究を続けている。
忘れぬ平和、演じる 原爆の日の授業減る今こそ
広島、長崎に原爆が投下された8月6、9日を夏休みの登校日とし、平和学習を行う小中学校が福岡県で減っている。そんな中、筑紫野市の二日市中は8月6日を登校日とし、生徒が脚本を書き、演じる平和劇の上演を続けている。
原子野 次代への伝言 広島の記憶/長崎の記憶
平和を求めて被爆体験を語り続ける人、放射線の家族への影響に不安を拭いきれない人…。戦後70年を経てもなお原爆被害は体験者の上に重くのしかかり、その心中には「再び被爆者を生まないでほしい」という願いが満ちている。
「琉球難民」台湾で生活苦 終戦後も一時留め置かれ
日本が太平洋戦争に敗れるより前、台湾は長らく「日本」であった。1944年の夏以降、この地は九州と共に沖縄からの疎開先とされ、石垣島や宮古島から1万人を超える人々が身を寄せた。