
「ビートルズになりたくて」
メジャーデビュー30年のザ・フライングエレファンツ。ビートルズに憧れ、国内外で活躍しているバンドの軌跡を安部米央さんに語ってもらいます。
憧れいまも追い続け ビートルズになりたくて(14)
中学生という多感な時期にビートルズに出会ったことが私の運命を決めました。今年で解散から50年ですが、今でも世界中から愛されるのは、ジョンとポールが出会った奇跡から始まり、ジョージとリンゴという4人のバランスのとれた個性が、プロデューサーのジョージ・マーティンさんらとの出会いによって爆発した結果でしょう。
拠点は田川変わらず ビートルズになりたくて(13)
活動範囲は全国に拡大しましたが、私たちは相変わらず、活動が終われば田川へ戻りそれぞれの本業を続ける日々を送りました。取材ではよく「地元への特別な思いがあるんですね」と言われましたが、そうではありません。
スターへの道を進む ビートルズになりたくて(12)
渡米直前からカーネギー公演まで、私たちはNHKに密着取材を受けていました。帰国後、それがドキュメンタリー番組「プライム10」で放送されると、エレファンツの名は全国にとどろき、次々に公演依頼が舞い込みました。
世界の舞台、いざ開演 ビートルズになりたくて(10)
公演当日(1992年10月8日)の朝、滞在していたコンドミニアムには、音楽関係者やファン、取材のメディアなどが次々にあいさつに来て、せわしなく時間が過ぎていきました。そして、カーネギーでリハーサルを始めた昼すぎから「ビートルズと同じステージに立って、同じ事をやれるんだ」という期待や満足感、緊張が複雑に絡み合ったような状態になりました。
異文化で不安の日々 ビートルズになりたくて(9)
米国・ニューヨークには、カーネギー公演をはさみ3週間ほど滞在しました。本番までの約10日間、私たちはニューヨークのビル街の一角にあるスタジオで毎日5~6時間ほど、現地のスタッフや出演者とレッスンを重ねました。
渡米前にハプニング ビートルズになりたくて(8)
カーネギーの出演が決まると、バタバタの日々です。どこから情報を聞きつけたのか、メディアから取材を受けるようになりましたし、キングレコードからも「関係者に紹介したい」という要請があり、東京へ取材対応と演奏に行ったこともありました。
カーネギー決まった ビートルズになりたくて(7)
メジャーデビューに至ったのはアルバム「コンフィデント11」の評判がきっかけですが、それをやろうと最初に私へ提案したのは当時マネジャーだった中野貢でした。 川崎町で電気屋を経営していた中野は、元々は私たちのファンの一人。
メジャーからの誘い ビートルズになりたくて(6)
甘木(現・福岡県朝倉市)に通うこと半年、アルバムが完成しました。木村と「どの曲も良いね」という話になり、名前は自慢の11曲という意味で「コンフィデント11」に決め、私がアルバムジャケットを作り、1989年12月に発売しました。
「他の音楽とは違う」 ビートルズになりたくて(1)
「ワン モア タイム」「ワン モア タイム」。1992年10月8日、アメリカの音楽の殿堂「カーネギーホール」にはニューヨーカーからのアンコールの声が鳴り響きました。