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三内丸山遺跡

 今から約5900~4200年前の縄文時代の大規模集落。面積は約40ヘクタールに及ぶ。1992年からの調査で縦32メートル横10メートルの範囲で出土した大型建物跡をはじめとする多数の竪穴住居跡や掘立柱建物跡、墓、道路跡などを確認。DNAの分析から縄文人がクリの栽培をしていたことも明らかになった。

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「吉野ケ里から手法学んだ」 集客力も遺跡保存の決め手に

吉野ケ里インパクト ~史跡指定30年(2)

 「吉野ケ里から学んだからこそ、世界遺産推進の機運が生まれた」。青森県世界文化遺産登録推進室長の岡田康博(62)はそう明言する。来年の登録を目指す「北海道・北東北の縄文遺跡群」の中核となる三内丸山遺跡(青森市)に長く関わってきた保存・整備の「顔」だ。(敬称略)

 運動公園建設に伴う同遺跡の調査開始は1992年。岡田はすぐに、第一級の考古学的価値に気付いた。「これを好事家だけのものにしてはいけない。縄文ファンの裾野を広げるきっかけにしたい」

 全国の遺跡を見て回ったが、弥生時代の豊富な出土資料から専門家の注目度が極めて高い「唐古・鍵」(奈良県)などでもほとんど人影はなかった。ほぼ唯一の例外が吉野ケ里だった。92年の見学者は100万人を超え、累計600万人に達していた。弥生集落跡の“老舗”「登呂」(静岡市)が年間20万人程度だったことと比べると、爆発的な勢いだった。

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 吉野ケ里は「歴史ロマンの見える化」に取り組んでいた。発掘責任者の高島忠平(80)は岡田に「盛り上がっている時に本物を見せなければいけない」と助言した。調査を続けながら物見櫓(やぐら)や竪穴住居を再現したことを説明。その分かりやすさが見学者に好評だったことも伝えた。

 これに倣った三内丸山は、発掘と並行して、建てられた目的については今も議論が分かれる巨大な6本の柱などを再現した。学術的に形状が確定した構造物ではないが、岡田は「考古学では『地下に真実、地上にロマン』。一般の人は穴を見たって想像できないでしょう」と言う。

 高島がもう一つ伝えたのは「おもてなし」。「トイレをきちんと」、「駐車場も大事」。土産物店や食堂なども含めて当初の周辺施設は吉野ケ里流のプレハブで整備することになる。

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 94年7月、「縄文時代の巨大集落」という報道がきっかけで三内丸山の保存が決まる。同年11月に、岡田は再び吉野ケ里に現れた。今度は1人ではない。青森商工会議所青年部のメンバーを引き連れてきた。

 出迎えたのは商工会主体の「吉野ケ里遺跡保存協力会」。遺跡ガイドや茶の接待などをアドバイスした。悩んでいた「財源問題」も伝えた。これが後の青森県からの補助金支給につながっていく。

 視察メンバーを土台に「三内丸山応援隊」が生まれた。ガイドを担い勾玉(まがたま)作り教室も開く。県の調査員は発掘期間中に毎日現地説明会を開く。岡田は「一般観光客にもう一度来てもらうには、楽しんでもらうことが大事」と強調する。

 ハード、ソフトの努力が実を結び、三内丸山の見学者は年間30万人に。吉野ケ里と共に、集客力をエンジンにして遺跡保存の新たな地平を切り開いた。

 集客力は予算獲得につながり、新たな整備・保存の好循環を生んだ。「いい研究を続けるためにも、世間からの注目は大きな力になる」。高島は率直に語る。

(古賀英毅)

【三内丸山遺跡】今から約5900~4200年前の縄文時代の大規模集落。面積は約40ヘクタールに及ぶ。1992年からの調査で縦32メートル横10メートルの範囲で出土した大型建物跡をはじめとする多数の竪穴住居跡や掘立柱建物跡、墓、道路跡などを確認。DNAの分析から縄文人がクリの栽培をしていたことも明らかになった。

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