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残留日本兵

 日本の無条件降伏で太平洋戦争が終結した1945年8月15日時点で海外にいた日本兵は約370万人。このうち復員せずに現地にとどまった残留日本兵は約1万人とされる。残留した地域は、現在のラオス、カンボジア、ミャンマー、マレーシア、フィリピンなどの東南アジアから中国、ロシアなどに及ぶ。インドネシアやベトナムの独立戦争への参加者もいる。日本では90年代まで「逃亡兵」「棄民」とみられ、現地でもタブー視されがちで、経済的に困難な状況にあった元日本兵やその家族は少なくないという。

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26歳で戦死…軍神化された「残留日本兵」 足取りを追った

 太平洋戦争が終わっても外地にとどまった「残留日本兵」。南島原市加津佐町出身の故荒木武友さんもその一人だ。インドネシア・バリ島で終戦を迎えたが、同国の独立を目指す義勇軍の兵士として戦い、26歳で戦死した。敵を恐れぬ奮闘ぶりから半ば「軍神化」され、今も現地の記念塔に祭られる。帰郷を前に脱走兵のそしりを受けてまで外地での戦闘に命をかけた若者たち。何が彼らを突き動かしたのだろう。 

 武友さんを大叔父に持つ同市加津佐町の農業荒木健夫さん(60)、荒木家を檀家(だんか)に持つ雲仙市南串山町、温泉(うんぜん)山一乗院の西泰仁住職(50)の2人の話や、バリ島で戦った残留日本兵を描いた「サムライ、バリに殉ず」(講談社、坂野徳隆著)などの書籍から、武友さんの足取りをたどった。

 武友さんは1920年生まれ。農家の4人兄弟の三男として育ち、船員を経て20歳で兵役に就いた。勇猛な海軍陸戦隊の一員として東南アジアに派遣され、終戦時はバリ島に駐留。

 日本の敗戦をきっかけに、旧宗主国で再び植民地化を狙うオランダや親オランダの政府軍と、独立を目指す反政府軍や義勇軍の間で独立戦争が始まった。

 武友さんの部隊は日本人収容所に抑留されていた。終戦翌年の46年2月、武友さんは「連合軍の捕虜になるのを嫌った」(同書)として故松井久利さん(享年26、北九州市出身)らと部隊から脱走。プナルンガン村の義勇軍に合流した。

 素人集団に近い義勇軍の兵士に銃の扱い方を教え、基礎訓練からゲリラ戦まで指導。戦術的にも重要な役割を果たした。「機械に詳しく、日本軍の廃棄された銃や車を修理して戦ったそうです」(健夫さん)

 4月11日未明、武友さんと松井さんらは義勇軍を率いて英・オランダ軍に夜襲をかけ、戦果を挙げる。その後のゲリラ戦でも勝利を重ね、2人が指揮する戦いは必ず勝つというジンクスが浸透していったという。

 11月20日、オランダ軍の猛攻で2人をはじめ残留日本兵約30人を含む義勇軍はほぼ全滅。バリ島では苦戦したが、反政府軍は最終的に独立を勝ち取った。

   ◇   ◇

 太平洋戦争敗戦から75年、独立戦争終結から71年が過ぎ、激戦地のバリ島は国際リゾート地に様変わりした。今、武友さんと松井さんの魂は、武友さんの現地名マデ・スクリと松井さんのワヤン・スクラから名付けられた「スクリ・スクラ記念塔」や国の英雄墓地など3カ所の慰霊塔に眠る。

 記念塔はプナルンガン村の学校敷地内に建立されている。9層の塔の左右を2人に見立てた日本兵の像が守る。義勇軍に入った2人に「独立の暁には記念塔を作ると約束した」(西住職)村人たちが、寄付金を集め、6年がかりで建てた。遺骨こそないが、2人は「独立の恩人」として手厚く弔われ、供物や花が絶えることもない。

 寺の用事でバリ島を訪れた西住職は、記念塔を知り現地での法要を思い立つ。2016年7月、健夫さんと妻の小由利さん(55)、僧侶仲間ら約40人の慰霊団で村を訪問。住民や元義勇軍兵士ら総勢200人が参列し、独立戦争の犠牲者の追悼法要が営まれた。

 健夫さんは「日本兵として太平洋戦争で戦死した」と思っていた武友さんの生きざまを松井さんの遺族から伝え聞いてはいたが、現地で「見上げるような立派な塔」に驚き、「大切に供養されていることに感謝した」。西住職も「三つもの慰霊塔に安置されている人物。菩提(ぼだい)寺の住職の役目を果たせた」と振り返る。

   ◇   ◇

 武友さんたちは、どのような思いで義勇軍に加わったのだろう。

 日本の無条件降伏直後、義勇軍は銃器を奪うため日本兵を襲い、少なからぬ死傷者も出た。にもかかわらず1万5500人以上の日本兵が引き揚げる一方で、900人以上が残って独立戦争を支援したとされる。

 各地の在留日本兵への聞き取りでは、帰国しなかった理由として、欧米の列強からアジア諸国を解放する大東亜共栄圏を大義に掲げて進軍した日本が果たせなかった約束を守る▽捕虜生活への抵抗▽帰国後の生活への不安▽戦犯として裁かれることへの恐れ-などが挙がる。軍国教育で刻み込まれた価値観が崩壊した敗戦の混乱の中、何が正義で正解だったのか。

 記念塔の壁には、武友さんと松井さんが残した言葉が刻まれている。「独立か死か」「自分らが死んでも千個の種が生まれる」「(独立の精神は)退かず前に進め」。2人は、義勇軍兵士を、そして自らを鼓舞したのかもしれない。

 健夫さんは「バリの人々の役に立ちたかったのでは」と武友さんの胸中に思いをはせ、1枚の形見の写真をそっと差し出した。バリ島から送ったとみられる古い白黒写真には、にこやかにほほ笑む約20人の人々がいた。現地の女性や子ども、日本兵たちの中に、くつろいだ表情で足を伸ばして座る武友さんの姿があった。(真弓一夫)

【ワードBOX】残留日本兵
 日本の無条件降伏で太平洋戦争が終結した1945年8月15日時点で海外にいた日本兵は約370万人。このうち復員せずに現地にとどまった残留日本兵は約1万人とされる。残留した地域は、現在のラオス、カンボジア、ミャンマー、マレーシア、フィリピンなどの東南アジアから中国、ロシアなどに及ぶ。インドネシアやベトナムの独立戦争への参加者もいる。日本では90年代まで「逃亡兵」「棄民」とみられ、現地でもタブー視されがちで、経済的に困難な状況にあった元日本兵やその家族は少なくないという。

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