ワードBOX

新聞記事に使われた語彙(ごい)を説明した新聞用語ひと口メモ。このページでは新聞に掲載されたワードBOXとその関連記事をピックアップして紹介します。

朝鮮戦争

 1950年6月25日、旧ソ連の後押しを受けた北朝鮮軍が北緯38度線を越えて南下したことで始まった。北朝鮮軍はソウルを占領して一気に韓国南部まで侵攻したが、9月15日、米国中心の国連軍、韓国軍による仁川上陸作戦で戦況は一転。逆に国連軍側が38度線を越えて北上した。ところが11月末、北朝鮮を支援するために中国軍が全面介入し、再び国連軍は後退。51年以降、戦況は38度付近で膠着(こうちゃく)状態となった。
 53年7月27日、国連軍、中国軍、北朝鮮の3者が休戦協定に署名。韓国の李承晩(イ・スンマン)大統領(当時)は休戦に反対し署名を拒んだ。朝鮮半島全体に及んだ戦争による死者は南北だけで126万人に達し、約1千万人の離散家族を生んだ。

※ワードの説明及び記事の内容は更新日のものです。

関連記事

休戦65年 終結この目で 朝鮮戦争元義勇兵 日韓に11人存命 「同胞同士の戦いは不幸」

 朝鮮戦争(1950~53年)は27日に休戦65年を迎える。朝鮮戦争といえば、太平洋戦争で焼け野原になった日本が、米軍への物資供給で息を吹き返した「特需景気」で知られるが、実は日本から戦地へ出兵した人もいた。祖国を守るため、玄界灘を渡った642人の在日の青年たちだ。「在日義勇兵」と呼ばれる元兵士は、大半が亡くなり、生存しているのは日韓にわずか11人。4月末の10年半ぶりの南北首脳会談で、年内に戦争終結を宣言する方針が確認された。激変の朝鮮半島を元兵士はどう見ているのか-。 (ソウル曽山茂志)

 「日本の新聞記者さん、よく来てくれました」-。韓国の国会議事堂があるソウル西部、汝矣島(ヨイド)の一角にあるビルを訪ねると、金載生(キムジェセン)さん(88)が達者な日本語で出迎えてくれた。「在日学徒義勇軍同志会」の第18代会長。胸には韓国政府から授与された勲章、左腕には文在寅(ムンジェイン)大統領の名前が入った腕時計をつけている。

 「カナヤマヒロシ」として大分県別府市で生まれ育った金さんは、太平洋戦争では関西の飛行機工場に動員され、米軍の爆撃機B29の空襲に遭って六甲山(兵庫県)まで逃げた経験もある。終戦後の50年6月に、北朝鮮軍が北緯38度線を越えて朝鮮戦争が勃発。別府市に戻っていた金さんは、韓国を支持する同胞団体が在日の青年を対象に参戦を募っていることを知った。

 家族や恋人は「死ぬぞ」「行かないで」と猛反対したが、「祖国のために戦う」と迷わずに決意して志願。大分の米軍キャンプで約50日間の基礎訓練を受け、11月に門司港から北朝鮮東海岸の元山へ。金さんが配属された部隊は数日で中朝国境近くまで進軍した。

 「チャイナ、チャイナ」。12月のある日、偵察の米兵が慌てて戻ってきた。発見したのは、北朝鮮軍支援で介入した中国軍だった。真冬の最前線は一転して激戦に。周囲を多くの敵に囲まれた金さんは1メートルほどの穴を掘って身を潜め、雪を食べながら飢えをしのいだ。1週間ほどたって「いよいよ死を覚悟した」頃、ようやく援軍が到着。九死に一生を得たが、部隊は壊滅していた。

    □   □

 ソウル中心部から鉄道で北へ約1時間。京畿道楊州市のマンションで趙〓(〓は「金へん」に「庸」)甲(チョヨンカプ)さん(94)は妻と2人で静かに暮らしている。

 韓国南部の慶尚南道から兄を頼って12歳で大阪市に移り住み、太平洋戦争末期に徴用されて、愛媛県の軍施設で終戦を迎えた。日本の敗戦で祖国は南北に分かれ、在日の青年も割れた。大阪に戻った趙さんは韓国を支持する団体に入り、志願兵を率先して集めた。

 関西、中国地区などから集まった約240人と一緒に大阪駅から米軍キャンプがあった埼玉へ向かった。旧日本軍での経験がある「即戦力」が多かったためか、訓練は約2週間で終わり、横浜港から輸送船で戦地に向かった。趙さんらは行き先を知らされないまま、船は済州島沖を通過。「台湾に行くのか」と思ったら、韓国西海岸の仁川沖にいかりを下ろした。国連軍、韓国軍による仁川上陸作戦決行の地だった。

 同作戦では、南東部の釜山近くまで攻め込んでいた北朝鮮軍を背後から急襲。戦況は一変し、国連軍、韓国軍は反攻に転じた。国連軍で後方部隊に配属された趙さんは「前線で戦いたい」と直訴。韓国軍に移って陸軍兵として韓国北東部などに送られ、鉄砲隊中隊長で休戦を迎えた。

    □   □

 53年7月、休戦。

 在日義勇兵は行方不明者を含め、5人に1人に当たる135人が死亡した。生存者の多くは日本に戻ろうとしたが、前年のサンフランシスコ講和条約の発効で主権を取り戻した日本政府は、在日義勇兵が許可なく出国したとして「再入国」を認めなかった。

 韓国に取り残された金さんや趙さんら242人を、故朴正熙(パクチョンヒ)大統領は「本当の愛国者」と高く評価し、仕事や住居を与えるなどして大切にした。日韓史に詳しい鄭在貞(チョンジェジョン)ソウル市立大名誉教授は「国家の危機に駆け付けた在日義勇兵は韓国政府にとって英雄的な存在だった。彼らをたたえることで、国内外でさらに多くの協力を呼び掛ける狙いもあったのではないか」と推測する。

 「在日学徒義勇軍同志会」事務局によると、元在日義勇兵で現在も存命なのは日本に5人、韓国に6人だけ。太平洋戦争では、日本側の一員として米国と相まみえ、朝鮮戦争では祖国のために米国と共に戦うなど歴史に翻弄(ほんろう)されてきた金さんと趙さん。しかし、2人とも「自分が生きてきた道に悔いはない」と明言する。

 文大統領と北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長は、4月27日の首脳会談で公表した「板門店宣言」で、65年間続く休戦状態を「非正常」と指摘。年内に終結を宣言し、「休戦協定」を「平和協定」に切り替える方向を確認した。歴史が動く気配を感じる金さんたちの思いは一つだ。「同胞同士の戦いは、どちらが勝っても不幸になる。本当の平和をこの目で見てみたい」

 ●兵役義務 息子に愛国心 在韓日本人女性 「産んだ時から覚悟」

 現在も「戦時」の韓国では、19~29歳の男性に約2年の兵役が義務付けられている。多くは任期中、厳しい訓練を受け、有事に備える。韓国人男性と結婚して約20年ソウルに住む和地美有希さん(51)の長男(24)は6月初め、陸軍に入隊した。和地さんは「韓国で生きる以上、長男が生まれた時から兵役は覚悟していた」と話す。

 長男の入隊を見届けるために韓国中部の陸軍訓練所に行くと、全国から約3千人の青年が集まっていた。全員丸刈り。高校を卒業したばかりとみられる、あどけない顔もあった。数日後、和地さんの自宅に段ボール箱が一つ届いた。中には長男が入隊式で身につけていた洋服や下着、スニーカー、スマートフォンなど。一つずつ手に取って長男の入隊を改めて実感し、涙を流した。

 日本で生まれ、日本籍と韓国籍を持っていた長男は、17歳までに韓国籍を抜けば兵役に行かなくてすんだ。だが、そうはせず、身体検査を受けて入隊を待った。和地さんは、父親の国を大切に思う長男を誇らしく思う半面、「戦場で危険な目に遭うのでは」と気が気でない。厳しい訓練に耐えられるかも心配だ。

 韓国法務省によると、韓国人と結婚して韓国に住む日本人は約1万3千人。息子が生まれれば、兵役に行かせるかどうかで悩む。韓国人でも子どもを海外で出産して外国籍を取り、兵役を逃れさせる人がいる。和地さんは「兵役で鍛えられ、たくましくなって戻ってきてほしい」と願っている。

    ×      ×

 【ワードBOX】朝鮮戦争

 1950年6月25日、旧ソ連の後押しを受けた北朝鮮軍が北緯38度線を越えて南下したことで始まった。北朝鮮軍はソウルを占領して一気に韓国南部まで侵攻したが、9月15日、米国中心の国連軍、韓国軍による仁川上陸作戦で戦況は一転。逆に国連軍側が38度線を越えて北上した。ところが11月末、北朝鮮を支援するために中国軍が全面介入し、再び国連軍は後退。51年以降、戦況は38度付近で膠着(こうちゃく)状態となった。

 53年7月27日、国連軍、中国軍、北朝鮮の3者が休戦協定に署名。韓国の李承晩(イ・スンマン)大統領(当時)は休戦に反対し署名を拒んだ。朝鮮半島全体に及んだ戦争による死者は南北だけで126万人に達し、約1千万人の離散家族を生んだ。

=2018/07/16付 西日本新聞朝刊=

PR

PR

注目のテーマ