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新聞記事に使われた語彙(ごい)を説明した新聞用語ひと口メモ。このページでは新聞に掲載されたワードBOXとその関連記事をピックアップして紹介します。

サッカーW杯日韓大会

 アジア初のW杯として、1996年に日本と韓国による共催が決定。2002年5月31日から6月30日まで、大分市や釜山市など日韓各10都市で試合が行われた。2度目のW杯出場だった日本は2勝1分け1敗で16強入り。韓国は4位。優勝はブラジル。

※ワードの説明及び記事の内容は更新日のものです。

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W杯の活力 社会変えた 日韓大会から16年 遺産今も

 2002年サッカーワールドカップ(W杯)日韓大会から16年。この大会で4強入りを果たした韓国代表は、釜山市で行われた初戦を制して勢いに乗った。1997年のアジア通貨危機の混迷から立ち直りつつあった当時、同国のW杯初白星に市民は熱狂。社会に大きな影響をもたらした。W杯ロシア大会で熱戦が繰り広げられる中、日韓大会が残したレガシー(遺産)を探しに、当時を知る人々を訪ねた。 (釜山・丹村智子)

 ●通貨危機越えて一丸

 沸き上がる熱気と歓声を含んだ「赤い波」が、繁華街・西面(ソミョン)に押し寄せた-。

 2002年6月4日、釜山市で行われた韓国対ポーランド戦。韓国は2-0で勝ち、1954年のW杯初出場以来、初めての勝利を挙げた。韓国代表カラーの赤いTシャツを身にまとった観客は試合後も興奮冷めやらず、「テーハミングク(大韓民国)」を大合唱しながら数千人が目抜き通りに流れ込んだ。車道を埋め尽くし、バスの屋根に上って国旗を振りかざす人々に、足止めされた車もクラクションを鳴らして呼応した。

 「こんなに大勢の人がサッカーという一つの競技を通じて一つになれるのか」-。当時、韓国代表応援団「レッドデビル」釜山支部の主要メンバーだった金成説(キムソンヨル)さん(34)は、今もその光景を鮮明に思い出す。「韓国人の団結力や底力のすごさに体が震えた」

 97年のアジア通貨危機の影響で韓国経済は混迷。国際通貨基金(IMF)管理下に置かれる事態となり、大量の企業倒産や失業者が出た。当時、学生だった金さんは、友人の父親らが失業し苦しい生活を強いられていたことや、人々が貴金属を国に供出したことを記憶している。

 韓国はその後IMFの管理下から脱却し、経済は立ち直りを見せていたが「人々の鬱々(うつうつ)とした、抑え込まれていた感情がW杯で爆発した」と金さん。韓国代表の躍進が、人々に希望や活力を与えたと感じている。

 ●民衆のうねり 政治に

 大会期間中、韓国代表が勝ち進むごとに応援は過熱した。金さんによると、同支部の会員数は、大会前の約500人から約3万~4万人に膨れ上がった。試合の日には海水浴場や公園、駅前広場などあらゆる場所に、赤いTシャツを着た人が集まった。

 当時取材に携わった地元紙、釜山日報の孫永信(ソンヨンシン)さん(現・編集局副局長)は“民衆のうねり”という新たな動きを目の当たりにしたという。

 軍事政権下の韓国では、街頭デモは取り締まられ、80年の民主化闘争「光州事件」では160人以上の死者が出た。集会は、上から強いられ動員されて開催されるものであり、市民によるデモは武力鎮圧を受けるなど負のイメージが濃かった。それがW杯を機に「市民が自発的に集まって、楽しい気持ちを共有するという新たな動き、新たな文化が生まれた」。

 こうした動きは社会に広まっていき、時として社会現象となるような「民衆のうねり」を生み出した。どこかお祭りムードも漂った、朴槿恵(パククネ)前大統領の退陣を求めたデモ「ろうそく集会」も、この延長線上にあると孫さんは分析する。

 ●協働で日本に親近感

 大会の「レガシー」は外国人観光客の利便性向上にも役立っている。期間中、外国人サポーターが多数訪れたことから釜山市は2003年、観光客増加などをにらんで、初の外国人職員5人を採用した。中国、ドイツなど5カ国の出身者で、韓国人男性と結婚し釜山に住んでいた木内徳子さん(53)もその一人だ。

 観光振興課に配属され、日本人観光客の誘致に取り組んだ。韓流ブームに後押しされて、釜山市を訪れた日本人は04年、約78万人に達した。木内さんは韓国語の直訳だった観光案内文の表現を自然な日本語に直したほか、韓国独自の風習には解説を加え、韓国人の同僚にも日本人のニーズなどを伝えてきた。

 木内さんには上司に言われた忘れられない言葉があるという。「W杯共催を通じて日本人に対する意識が変わった」という内容で「大会を成功させるという目標に一緒に取り組んだことで、日本の文化や働き方を理解し、親しみを感じる人が増えたのではないでしょうか」

 今年の釜山-。金さんによると、レッドデビル釜山支部は、スポンサーの支援を受け組織的な活動をすることに区切りをつけ、各自ができる範囲で応援する同好会的スタイルに変わったという。

 それぞれの楽しみ方で、それそれができることを。「レガシー」は、時流に合わせながら街に根付いている。

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 ●言葉を学び、文化理解を 韓国人初のJリーガー、盧廷潤さん

 韓国人初のJリーガーとして、アビスパ福岡など日本で10年間プレーした元韓国代表、盧廷潤(ノジョンユン)さん(47)。日韓両国での活躍を通して「大切なのは、相手の言葉を学び、文化の違いを理解すること」だと指摘する。

 大学在学中に韓国代表に選ばれるなど期待を集めていた盧さん。「ジーコ(元ブラジル代表)やリネカー(元イングランド代表)がいる日本で自分の力を試したい」とJリーグが開幕した1993年、サンフレッチェ広島に入団した。従軍慰安婦問題を巡り「河野談話」が同年発表されるなど対日感情が厳しくなっていた時期でもあり、韓国で「裏切り者」とたたかれた。

 広島では、チームメートの信頼を得るため語学学校で日本語を学び、1年目からレギュラーとして活躍。W杯米国大会の韓国代表にも選ばれた。「似ているようで文化も考え方も違う国同士。結果を出せたのは、言葉を学んだことで違いを理解できるようになったからだと思う」

 しかし同年、カタールのドーハで行われたW杯アジア最終予選で、思わぬ騒動に巻き込まれる。同宿だった日本代表選手にキムチなどを差し入れたところ、韓国で批判され「(日本側の)スパイ」とのあらぬ嫌疑もかけられた。「お互い不慣れな土地で頑張っている中、広島で一緒だった選手もキムチが好きだったのを思い出したから」。そんな好意すら責められた。

 風向きが変わったのは96年、W杯の日韓共催が決まったころからだった。両国の友好ムードが高まり、韓国人Jリーガーが続々誕生。サッカー界の日韓交流が進んだ。

 日韓大会があった2002年はアビスパ福岡でプレー。テレビで観戦し、日韓が健闘をたたえ合う姿に心を揺さぶられた。03年、韓国のチームに移籍。06年に引退した。

 時に逆風にさらされた選手生活。「スポーツと政治問題は切り離して考えるべきだ」との信念を貫いた。日韓大会は、近くて遠いと言われていた両国の距離を縮めた大会と感じている。

 ▼ノ・ジョンユン 1971年生まれ。高麗大卒。ポジジョンはMF。W杯は94年米国大会、98年フランス大会に出場。2001~02年にアビスパ福岡でプレーした。ソウル市在住。

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 【ワードBOX】サッカーW杯日韓大会

 アジア初のW杯として、1996年に日本と韓国による共催が決定。2002年5月31日から6月30日まで、大分市や釜山市など日韓各10都市で試合が行われた。2度目のW杯出場だった日本は2勝1分け1敗で16強入り。韓国は4位。優勝はブラジル。

=2018/06/25付 西日本新聞朝刊=

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