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新聞記事に使われた語彙(ごい)を説明した新聞用語ひと口メモ。このページでは新聞に掲載されたワードBOXとその関連記事をピックアップして紹介します。

ビルマ戦線と九州部隊

 第2次大戦開始後の1942年1月、日本軍は中国への補給路(援蒋ルート)を遮断するため、英国植民地だったビルマ(現ミャンマー)に侵攻。同5月にビルマ全土を制圧した。国境線を守るため、福岡県久留米市で編成された陸軍第18師団(菊兵団)と第56師団(龍兵団)が送り込まれた。兵士の多くは北部九州の出身者。弾薬や食料の補給がない中、それぞれ英領インド国境と中国方面で持久戦を続けた。ビルマ戦線の戦没者は約13万7千人。無謀な作戦から飢えや病気による死亡も多く、ビルマは「陸の玉砕地」とも言われた。

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旧日本兵遺骨、古里に戻れ ミャンマー停戦で調査本格化

 第2次大戦末期、九州出身の兵士が数多く犠牲になったミャンマー北部で、遺骨収集に向けた調査が本格化している。政府と少数民族武装勢力との戦闘が続き、立ち入りができなかったが、4月末までの停戦が実現したためだ。戦後長い間忘れ去られ、未帰還の遺骨が今も眠る戦場に、再び光が当たろうとしている。

 「畑を作るために土を掘れば、今もたくさんの人骨が出てくる。農民には『骨が出たら、すぐに知らせてほしい』と伝えました」

 2月初旬、ミャンマー北部カチン州の「フーコン」で遺骨調査を行った少数民族ゾミ族のタンイェン・ムーンさん(36)は取材に対し、こう語った。九州出身の兵士らが望郷の思いを込めて名付け、多くの死者を出した脱出路の「筑紫峠」にも調査に入った。

 カチン州は長く内戦下にあり、日本兵の遺骨収集は進んでいなかった。しかし、ミャンマー国軍が昨年12月、4カ月間の停戦を公表。戦闘は停止したが、外国人の立ち入りは制限されているため、福岡市の一般社団法人「日本ミャンマー未来会議」代表の井本勝幸さん(54)がムーンさんに現地入りを依頼し、本格的な調査を始めたのだ。

 調査は地道な作業だ。村の古老に聞き取りを行い、日本兵の遺骨がある場所を試掘し、衛星利用測位システム(GPS)を使いピンポイントで特定する。井本さんは「当時の状況を知る人は着実に減っている。遺骨収集はこの1、2年が勝負だ」と語る。

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地獄の「筑紫峠」眠る骨 久留米で編成「菊兵団」6割超死亡

 ミャンマー北部カチン州にある「フーコン」は、インドとの国境付近にある渓谷だ。現地語で「死の谷」を意味する。トラなどの猛獣が密林に潜み、マラリアなどの病原菌が侵入者の命を奪う。

 第2次大戦中、福岡県久留米市で編成された陸軍第18師団(菊兵団)は、フーコンへと進んだ。中国への補給路の「援蒋ルート」を遮断し、後に始まるインパール作戦の敵兵力を分散させるためだった。

 しかし、連合軍は最新の兵器と物資を無尽蔵に投入した。片や「菊兵団」は増援や弾薬類の補給もないまま持久戦を強いられ、兵士の6割以上が戦死した。

 フーコンからの脱出路で、兵士らが望郷の思いを込めて「筑紫峠」と名付けた峠道もカチン州にある。当時は雨期の大雨でぬかるみ、峠は力尽きた兵で埋まったという。西日本新聞に昨年、手記を送った菊兵団の元兵士はこうつづった。

 《撤退路は敵に遮断され、約600メートルの山頂に伐開路を造った。患者を先頭にした山越えは、雨期のため伐開路が膝まで没する泥と化し、息も絶え絶えとする幾百の患者群。うじ虫の死骸、白骨化した遺体、白骨街道と化した『筑紫峠』は地獄の針の山であった》

 遺骨調査を行ったタンイェン・ムーンさん(36)によると、筑紫峠とみられる場所は現在、ジャングルに覆われているという。近くにあるゴリー村の村長(56)は「多くの日本兵が山腹で、飢えて死んだと聞いている」と話した。

 ただ、村長は「2人が埋葬された場所を知っているが、そこは今、警察署になっている」「5年前に家屋の建設現場から人骨が出てきたが、住民は何も事情を知らなかったので、捨ててしまった」とも語った。

 召集令状1枚で過酷な戦場に駆り出された九州の兵士たちが、ミャンマーで朽ち果てようとしている。調査の指揮を執る井本勝幸さん(54)は「もし自分が逆の立場だったら、と考えてほしい。遠く離れた異国で理不尽な死を遂げた方々を、一人でも多く日本に連れて帰りたい」と話した。 (ヤンゴンで、浜田耕治)

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遺骨収集、時間との闘い 一時停戦、現地調査可能に

 情勢不安が続くミャンマー北部のカチン州で、第2次大戦中の日本兵の遺骨調査が可能になったのは、大きな政治権限を握るミャンマー国軍が「すべての軍事行動」を4月末まで停止すると発表したためだ。

 ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問が主導する和平プロセスにはこれまで10勢力が同意したが、カチン州少数民族の武装勢力など複数が参加を拒否。武装勢力側は国軍に対して戦闘の停止を求めていたが、国軍はこれを拒んでいた。

 しかし国軍は、70万人以上が隣国バングラデシュに逃れたイスラム教徒少数民族ロヒンギャに対する迫害で、国際社会の非難を浴びている。国連調査団は軍幹部らを国際刑事裁判所に訴追するよう勧告した。

 現地の事情に詳しい関係筋は「国軍には少数民族問題で批判が高まるのを避けたいとの思いがあったのだろう」と指摘。「カチン州では戦闘で12万人が避難民となり、家を追われている。武装勢力は交渉に前向きなので停戦が延長される可能性もある」と話す。

 一方、日本政府によると、ミャンマーでの戦没者数は約13万7千人。今も4万5570人分の遺骨が取り残されている。北部などの国境周辺で衝突が続き、外国人の立ち入りが長く制限されてきたためだ。「筑紫峠」も一時停戦中だった2000年に元兵士と日本政府が付近に入り、3人分の遺骨を収集しただけだ。

 井本さんは11年、少数民族支配地域に単身で入り、武装勢力を一つ一つ説得して、ミャンマー政府との和平交渉を橋渡しした。このため、少数民族側が「日本人の遺骨が各地に埋まっているので恩返ししたい」と申し出たという。

 井本さんに協力する少数民族の調査隊は12チームに上る。今年に入り「北部シャン州の洞窟内で餓死したとみられる相当数の日本兵の遺骨を発見した」「沼沢地で日本兵約50人が英軍の銃撃で全滅した。村は遺骨の発掘を許可した」などの報告が続いている。

 ただ、日本政府による遺骨収集につながるかどうかは停戦延長の行方が鍵。当時を知る住民の高齢化も進んでおり、埋葬場所などの特定は時間との闘いだ。 (浜田耕治)

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【ワードBOX】ビルマ戦線と九州部隊

 第2次大戦開始後の1942年1月、日本軍は中国への補給路(援蒋ルート)を遮断するため、英国植民地だったビルマ(現ミャンマー)に侵攻。同5月にビルマ全土を制圧した。国境線を守るため、福岡県久留米市で編成された陸軍第18師団(菊兵団)と第56師団(龍兵団)が送り込まれた。兵士の多くは北部九州の出身者。弾薬や食料の補給がない中、それぞれ英領インド国境と中国方面で持久戦を続けた。ビルマ戦線の戦没者は約13万7千人。無謀な作戦から飢えや病気による死亡も多く、ビルマは「陸の玉砕地」とも言われた。

=2019/03/03付 西日本新聞朝刊=

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